函館市文化・スポーツ振興財団

旧函館区公会堂|函館港を見下ろす高台に建つ旧函館区公会堂は、ブルーグレーとイエローの美しい建物です。
館内は貴賓室や130坪の大広間など、当時の華やかな雰囲気をそのままに残しています。 お電話でのお問い合わせは、0138-22-1001

旧函館区公会堂の歴史

公会堂誕生と時代背景

西洋化の洗礼を受けた街「函館」

幕末から明治にかけての激動期に、一躍脚光を浴びて急速に西洋化の洗礼を受けた街それが函館です。
安政6年(1859)幕府は函館・長崎・横浜の三港を外国貿易港として開港しました。
開港後、函館は海外貿易開始に伴い、商業の発達、特に輸出入品の急激な増加により大いに活気を呈しまた、政治・行政の中心地として栄えました。このことにより外国人との接触の機会が増え、函館の人々は貪欲に外来知識を吸収することになります。
やがて、政治・行政の中心が札幌に移りましたが、函館は依然として活気を呈し海陸交通や内外商業の拠点として発達し、その商圏は全道に及びました。
また、人口の増加も著しく、当時北海道第一の人口を有しました。この時期、レンガ造りや木造の洋風 の商家が建てられました。洋風といっても商家の場合従来の店や土蔵を元に洋風の構造や外壁を取入 れた和洋折衷の建物が多く見られました。
経済の目覚しい発展に伴い、各種商業団体や銀行もいち早く設立し、工業では、特に港湾に関連のある造船所や鉄工所等が増加しはじめました。
生活基盤についてみますと、上水道の敷設、道路改良・区画の整理、また、電信電話の設備が作られ、近代都市として着実に成長して行くのです。

竣工直後の公会堂(明治43年) 基坂と旧函館区公会堂(明治43年) 東宮殿下行啓時の絵はがき

竣工直後の公会堂
(明治43年)

基坂と旧函館区公会堂
(明治43年)

東宮殿下行啓時の
絵はがき

明治43年に区民の手で誕生

浜風の強い函館では、ちょっとした火の不始末でもすぐ大火になることが多く、明治時代には9回(焼失戸数500戸以上)もの火災が発生しています。
明治40年8月(1907年)の大火では、西部市街地の殆ど全域を焼き尽くし、区民の集会所である「町会所」が失われ、会所内にあった函館商業会議所も類焼しました。
明治40年9月、区民の有志が公会堂建設協議会を結成し建築費を試算したところ、約6万円となりました。
協議会では、区民に寄付を呼びかけたり、町会所の火災保険金を建設費に当てることにしたのですが、全く足りませんでした。
当時の豪商初代相馬哲平に相談したところ、自分の住宅、店舗を焼失したにもかかわらず、5万円もの資金を提供してくれました。
これを基に総工費約5万8000円で工事が進められ、明治42年5月(1909年)に起工し、翌43年9月(1910年)に竣工しました。
設計は函館区技手小西朝次郎、監督は函館区技手渋谷源吉、請負は村木甚三郎などの手によるものでありました。
その後、翌年予定されている皇太子(後の大正天皇)の行啓に向けての工事が進められ、明治44年1911年)半ばに全てが完成しました。
建築にあたってはレンガ積み工、塗装工、左官などの多くの職人や大工、棟梁達が新しい意匠・技をフルに活用して、地方の鹿鳴館としての公会堂を見事に完成させました。

建設に情熱を傾けた人々

資金提供者 初代 相馬 哲平

相馬 哲平  相馬哲平は天保四年(1833年)越後の国(新潟県)で生まれました。
 28歳のとき、函館の附船渡世の店へ奉公しました。附船渡世とは、港に出入りする船の食料の補給や船員たちの食事や宿の世話などをする商いのことです。
 哲平は身を粉にして働き、二年後にはその努力が実を結び、米穀店を開くことが出来ました。
 明治二年(1869年)に箱館戦争が勃発した時、戦火の地に踏み止まり、全財産を注ぎ、米穀を買い集めました。
戦乱が終わると、これまで買い集めた米穀が総て高値で売れ巨額の富を得ました。
彼は、これらの資金を元手に金融業を始め、函館屈指の大富豪になりました。
 晩年は公共慈善事業に全力を傾けました。大正十年、八十九歳の人生に終わりを告げましたが、郷土報恩の精神は二代目そして三代目の相馬哲平へと引き継がれ、具体的には昭和十九年の「財団法人相馬報恩会」の設立となりました。当時の評価額で三百万円の現金や株券が財団へ寄付され、これが財団の運営基金となり、各種公益事業への援助が現在に到るまで続けられています。


設計者 小西 朝次郎

 明治十二年(1879年)函館に生まれました。
 独学で建築を学んだ後、鉄道の技術員を経て明治四十年(1907年)函館区役所の土木課営繕主任として勤務しました。
 公会堂の設計が、彼にとっての最初の大きな仕事でしたので、請負人で棟梁の村木甚三郎や先輩技手の渋谷源吉の指導を受けながら、情熱を傾け設計にあたりました。


請負人 村木 甚三郎

 嘉永元年(1848年)、新潟県中蒲原郡の生まれの大工でしたが、函館の高龍寺(函館の名刹)の建築工事に加わるため、親方と共に海を渡って来ました。
 高龍寺の落成後も函館に残り、独立して大工を続けながら建物の意匠について勉強をし、棟梁としての力をつけていきました。
その後、幾つかの建築を手がけて財をなし、やがて建築請負人になりました。
 公会堂をはじめ弥生小学校、セメント会社など、函館の大きな建築を次々と請負い大成しました。

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函館市重要文化財 旧函館区公会堂

〒040-0054 函館市元町11番13号
TEL 0138-22-1001
FAX 0138-22-8284
E-MAIL koukaido@zaidan-hakodate.com
ACCESS ◎市電 (函館駅前電停→函館どっく前行き)
「末広町電停」下車 徒歩7分
◎函館バス (棒二森屋前→高竜寺行き)
「公会堂前」下車 徒歩3分
詳しくはアクセス方法をご覧ください。