佐々木 逸郎  (ささき いつろう)  1927年〜1992年
 本道を代表した詩人で、放送作家、随筆家。病床ですら原稿を書き続けた「筆1本」の人生。

 昭和2年、松前の「寝ているといつも波の音がすぐ近くに響く」家に生まれた。金沢から北前船で渡道、船頭もしたことのある祖父と病弱だが陽気で勝ち気な祖母に育てられた。冬の終わりに横殴りで降るにわか雪を松前では「したき」と呼ぶ。小学校高等科から進学のため、初めて函館に向かう船に乗るとしたきが来た。たちまちかすむ祖母の姿に逸郎少年は叫ぶ。「おんばあ、おら、行ってくるはンでなぁ」。函館高等計理学校(現・函館大学付属有斗高校)修了。陸軍特別幹部候補生として陸軍航空通信学校在学中に肺結核となり兵役免除。札幌の傷病軍人北海道第二療養所の詩部会で更科源蔵、渡辺茂を識って私淑する。
 詩誌「野性」の同人となり、30年以降は編集同人。堀越義之らと「詩の村」を創刊した。詩集に北海道新聞文学賞を受賞した「劇場」と「運河」があり、紀行記に「北海道ひとり旅」、「シナリオ稼業」、編著に「北海道文学全集(22)北の抒情」、さっぽろ文庫「札幌の詩」、「更科源蔵詩集」がある。9年間NHK札幌放送局の専属脚本家となり、のち日本放送作家協会員として放送・舞台作品を数多く手がけた。61年から北海道新聞の日曜文芸詩選者として名も無い人々の魂の叫びに目を通した。文章教室で14年間、随筆指導もし、生徒からは「褒めの佐々木」と呼ばれ、どんな作品もけなさなかった。褒めて力を引き出し、定員はいつもオーバー、病気で入院しても生徒が合評会の自習で講座を守り通したほどであった。
 北の文学博物館「北海道文学館」の基礎づくりでは手弁当で尽力した。
 平成2年10月20日、「十勝を舞台にした文学作品」という演題で講演予定の来帯直前に急病で倒れた。4年1月17日正午、絶滅の危機にあるオロロン鳥の保護を訴えた「オロロン鳥のうた」など数多くの作品を手がけてきた名コンビ作曲家の桑山真弓さんのもとへ紙片が送くられてきた。エンピツで「北海道航空専門学校校歌」の歌詞が書かれていた。3ヵ所ほど空白があり、文字も乱れていたが、内容はしっかりしていた。「空白は桑山さんに埋めてほしい。遅くなってすまぬ」という伝言が添えられていた。その2時間後、筆1本に生きた佐々木逸郎は胃がんで亡くなった。享年64歳であった。
 絶筆となった「日本海冴えざえと」で始まる同校歌は桑山さんによって補作詞され、19日夜、通夜の後の「しのぶ会」で披露され、参会者の涙を誘った。

本文/「ステップアップ」vol.85(1996.4)より
(写真・資料/「北海道歴史人物事典」北海道新聞社編、北海道新聞・平成4年1月18日付け、平成4年1月21日付け、平成6年4月13日付けを一部引用)