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函館市文化・スポーツ振興財団 Foundation for Culture and Sport Promotion in Hakodate

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ウィリアム・レニー  1866年~1951年

函館名物、「1に朝イカ、2に石川啄木、3にウィリアム・レニー」と謳われ、函館の人たちをこよなく愛し、その持てる物すべてを与え、祈りの生涯を貫き通したカナダの恩人。

慶応2年11月17日、カナダのトロントで父ウィリアムと母サラの三男として生まれる。
レニー家は、カナダの開拓農家であった。開拓時代に、父や叔父の経営した農場は、最優秀経営農場として表彰を受け、父の創設した種子会社は、全カナダの農家に広く知られて繁昌した。裕福な家庭環境で幸せな少年時代を送ったレニー先生はやがて農学校に進み、卒業後は父の農場で農夫として働く。そのかたわらYMCAの活動に参加する。
明治21年東洋を回ってきたYMCAの先輩が、日本は後進国であるから、文明の進んだ国の人たちが行って助けなければと言う話を聞き、これが機縁となって来日することになる。横浜に上陸すると、昼間はラシャ販売店に勤めたり、聖書を頒布する米国聖書協会の書記などをし、夜は日本語学校へ通い、日本語を学んだ。
ある時、泥酔して千鳥足で歩き回わる日本人の姿を見て、日本に必要なものはヨーロッパの文明よりもっと大切な人間の魂を救う宗教ではないかと思い伝道者になる決心をする。
明治23年、そのために必要な学問をすべく帰国する。高校からトロント大学へ進み、文学士の称号を取得し更にノックス大学(神学校)に学び神学を修める。
明治39年、再び日本の土を踏む横浜に上陸してすぐに、函館の中学校で英語の教師を探しているのを聞き、日本のキリスト教主義の学校で働くよりは、普通の公立学校で働きたいと考えていたレニー先生は、早速函館に向った。庁立函館中学校(現・函館中部高校)、函館商業学校(現・函館商業高校)、函館工業学校(現・函館工業高校)、函館商船学校(昭和10年3月廃校)で英語教師として教壇に立った。
住いは、元町の商業学校の近くに下宿したが、間もなく汐見町の金森森屋の貸家を借りる。その家は、函館の中心街であった十字街から坂を上ったところにあった。レニー先生は、乗物には一切乗らず、家を出て坂を下り十字街に出て、電車通りを時任町の函中まで駆け足で通勤した。
山高帽に古洋服、ドタ靴が、トレードマークとなったが、汐見町に住んでいた頃は、タキシード、天火、冷蔵庫、鏡のついた洗面器、本箱、立派な額、ベッドなどを所有していた。
生活費としては、英語教師として受ける各学校からの相当の収入があり、また父の遺産として年間3000円の送金を受けていた。しかし、それらのお金の大部分は、教会への献金、伝道者への補助、学生の援助、貧民への施し、伝道用の書籍やパンフレットの購入等に用い、自分の生活は極めて簡素であった。
日中戦争が始まると憲兵や特高の目が光るようになり、毎年夏になると地方伝道に出掛けるのを、スパイ行動と誤解され、圧迫がきびしくなる。憲兵や特高ににらまれるだけではなく、これまで可愛いがり馴れ親しんできた近所の子供たちまで、外人なるが故に敵視するようになり、家のガラス窓は石で壊わされ、幾らも持ってない持ち物は、何もかも盗まれてしまうまでになった。
昭和16年2月、この頃から宣教師の引き揚げが始まり、9月12日、レニー先生も目に涙をいっぱい浮べ「今の文明はだめです」の言葉を残して帰国の途についた。この時74歳であった。
その後の消息はしばらく不明だったが、教え子の元に届いたカナダ人牧師からの手紙で昭和26年5月15日に84歳で死去したことが判明した。
昭和47年10月26日、函館中部高校前の児童遊園地の一角に教え子らによって記念碑が建てられ、毎年、教え子が集まって亡き師の遺徳をしのぶ会を開いている。今年も5月15日記念碑の前で行われる。

本文/「ステップアップ」vol.146(2001.5)より
(写真・資料/「ウィリアム・レニー先生小伝」神田幸子著、「レニー先生の思い出」清野夕二談、北海道新聞、読売新聞、函館新聞、資料提供/宮腰善行)


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