函館市文化・スポーツ振興財団

吉岡 憲 (よしおか あきら)  1854年~1917年

北海道新聞界の先駆けとしての函館毎日新聞社の基礎を固め、創刊1万号を記念して史跡五稜郭に桜の木1万本を植栽した下総国生まれの吉岡憲。

>吉岡 憲

安政元年10月1日、下総国東葛飾郡梅郷村字山崎の里の正彌兵衛の長男として生まれる。郷里の儒者和光照影の塾に学び、後東京に遊学し柏木重總の門に国漢学を修め帰郷の後、名主、戸長、学区取締等を勤め明治10年神奈川県属に任ぜられる。

15年1月職を辞して函館に渡り同港の英国領事館書記となる。後北海道鉄道株式会社及び函館船渠会社の創立に関り、函館船渠会社に入社する。31年5月、函館毎日新聞社創立時に初代平田文右衛門、馬場民則らの引き立てにより入社、支配人となって経営面を担当した。ついで社長に推され、同社の基礎を固めた。

函館毎日新聞社は平田文右衛門、馬場民則、金沢彦作、鈴木作内、佐野定七等の諸士に依る匿名組合を以て組織され、函館新聞北溟社を買収し、題号を函館毎日新聞と改めて続刊した。故にその号数は明治11年1月7日創刊の函館新聞の号数を継承したため、創刊号は第6049号から始まっている。

大正2年5月12日、函館毎日新聞は1万号に達し、この喜びを市民と共に分ち合おうと、その記念に公園として開放されたばかりの五稜郭公園へ桜の木1万本を植栽して函館市に寄付した。この1万号の発刊は、北海道新聞界の先駆けとしての函館毎日新聞にとって非常に大きな出来事だった。この日の紙面は47ページにわたる特集を組み、各界や函館区内外合せて200近い事業主からの祝辞を掲載している。短期間ながら函館に暮らした岡本一平もカットを送っている。この1万号記念号の冒頭で、「吾人にハ主義あり。正義公道之なり。人ハ世に媚び時に阿り或ハ嬌激に流れ浮華に傾くも吾人ハ之を好まず。否断じてこれを為さず。世の木鐸たり、世の指導者たるもの須らく牢固たる信用の下に立たざるべからず。穏健と着実とハ吾人の終始取て変ぜざるところ…常に誇々として誠心実意を吐露するを以て吾人の本領となす」と、明治11年「函館新聞」として創立以来の「信用」を重んじ「穏健と着実」な編集方針を継続している「函館毎日新聞」の経営方針がうたわれている。

大正6年5月20日、下総国に生まれ北海道へ渡り、北海道新聞界の先駆けとしての函館毎日新聞の基礎を固めた吉岡憲は病によりこの世を去った。享年64歳であった。

なお吉岡憲の後継には、明治31年の函館毎日新聞誕生の出費組合員でもある金沢彦作があたった。

函館ゆかりの人物伝