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柳田 藤吉 (やなぎだ とうきち) 1837年~1909年

幕末の箱館で外国貿易の基礎を作り上げ、黎明期の北海道における庶民教育の発展にも力を尽した柳田翁。

天保8年12月8日、陸中国(岩手県)盛岡六日町の下駄商人藤沢嘉兵衛の次男として生まれ、幼名を徳助と言った。嘉永元年、徳助12歳のときに陸中国閉伊郡遠野の村長佐々木藤兵衛について、6年間商業を見習った。その後、政治と商業の中心地、江戸・大阪・長崎の各地を巡覧し、政治や経済の動きを肌で感じ学びとった。安政3年3月、下田・函館の両港が開かれたのを機会に、商業に従事する決意をし函館に渡る。
4年2月、函館で知り合った越前国(福井県)河野の人、柳屋治郎右衛門の援助を得て大町に商店を開く。屋号を「柳屋」と称し、名を藤吉と改め小売商を始める。
6年6月、英国帆船イリサーメル号の入港に際し、英国商人アストンに大豆千石を売り渡した。これは函館開港以来はじめての貿易であり、売り渡しには西洋秤を使用した。これが貿易上西洋秤使用の始まりだった。この時、藤吉24歳だった。2ヵ月後の8月、アストンの手代、清国の陳玉松の注文に応じ、昆布千石を売り渡す。百石(15トン)百六十両で買い取ったものを、二百五十両の値で千石を売り渡し、膨大な利益を得る。あまりの儲けに藤吉は気味が悪いと言ったほどである。これが道産昆布を函館から清国に直輸出した始まりであった。
元治元年、市内願乗寺前において、刻み昆布製造業を開始する。翌慶応元年には製造場で使役していた女工は1,700人に達したといわれる。北海道における刻み昆布業のはじまりである。
明治2年4月東京早稲田に北門社新塾を開き、300人を定員として、入学金も授業料も取らずに教育した。翌年には、函館に北門社郷塾という分校を設け、漢字と英語を教えた。またこれよりさき、市内願乗寺川筋において天然氷を伐採し、横浜に輸出した。これは函館氷を本州に輸送したはじめである。
4年、庶民にも苗字が許されるようになると、柳屋治郎右衛門の名にちなんで柳田と名乗った。そしてこの年、初めて根室の土地を踏んだ。根室で漁場、コンブ場合わせて23ヶ所の割渡しを受けた。それ以来、年々数ヵ所ずつ割渡しを受けニシン、サケ、マス、コンブなど毎年数千から一万余石を水揚げ、巨万と呼んでいいカネをつかみ、根室王といわれた。16年には大日本水産会名誉会員・昆布業組合頭取に選ばれ、多年の漁業や公益の功により藍綬褒章を受賞。その他根室銀行を設立、牧畜業、倉庫業を営み34年北海道会議員、37年衆議院議員に当選した。
藤吉は明治4年、活動の場を函館から根室に移し、明治42年5月、この地で73歳の生涯を終えた。

本文/「ステップアップ」vol.105(1997.12)より
(写真/函館市中央図書館、資料/「北海道歴史人物事典」北海道新聞社編、「函館人物誌」近江幸雄著、「北の文明開花」早坂秀男・井上能孝著、「天真の流露」柳田辰男編、「北海道の夜明け」北海道総務部文書課編)


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