函館市文化・スポーツ振興財団

八木 隆一郎 (やぎ りゅういちろう)  1906年~1965年

庶民を書きながら詩情豊かな抒情性をもち、八方破れな生き方でありながら純真な心をもった劇詩人。

八木 隆一郎

明治39年4月17日、秋田県能代の向能代の八木財吉・ふみの長男として生まれる。
本名財一郎。
3歳の年、両親の離婚で母ふみに連れられて函館に渡る。
7歳で函館市幸小学校に入学、13歳で庁立函館商業学校に入学する。
その翌年から文学活動を始める。
仲間と同人誌を発行するとともに、大正11年12月15日に創刊された「校友会雑誌」には、“八木小夜二”“八木青萍子”のペンネームで詩や俳句を投稿する。
また文学活動のかたわら弁論部に所属し、大正12年10月27日に市公会堂で開催された中等学校弁論大会に、函商代表の1人として出場し、第2位に入賞している。
隆一郎の演題は、「静夜静思」、「社会苦より宗教への過程」、「新生への曙光」といった宗教的色彩の濃いものが多かった。
これは、在学中から熱心なクリスチャンとなり、会所町(現元町)のメソジスト教会で洗礼をうけたことが影響しているのだろう。

大正13年3月、函商卒業後青森県五所川原市の金木で代用教員となる。
この間「3L」グループを結成、ガリ版刷りの機関紙を作り文学にますます入れ込んでいった。
この間の仲間に竹内俊吉(元青森県知事)、坂本一義(元青森放送社長)等がいた。

大正15年6月、20歳で文学を志して上京。本屋・ポンプ屋を転々とし、雑誌経営の水守亀之助の書生となる。
文学雑誌に小説を発表し激賞を受ける。
昭和2年9月10日、隆一郎21歳の時、最愛の母ふみ死去する。 29歳にして友人伊藤元吉の妹で加能作次郎の姪であるアイ子と結婚、30歳で自伝的手記「わが母は聖母なりき」を雑誌婦人公論に発表、後にテレビ化される。同年、出世作となったアイヌを題材とした戯曲「熊の唄」を執筆、明治座にて上演される。
昭和13年、長塚節原作の「土」をシナリオに脚色、内田吐夢演出。翌14年和田勝一原作「海援隊」をシナリオに脚色して文部大臣賞を受賞。戦後の戯曲では、「望みなきに非ず」、「石中先生行状記」などが代表作で、昭和29年には、第5回NHK放送文化賞を受賞している。
戦後の劇作69編、戦前のもの33編を合わせれば102編となり、まさに芝居作りの名人であった。

酒を愛し、漂泊を愛し、時にはそれが嵩じて八方破れの、とりようによってはでたらめな生活態度でありながら、純真な人柄に誰れからも愛された八木隆一郎は、昭和40年5月12日、脳溢血にて突如倒れる。同夜7時13分、池上本町松井病院で永眠。行年59歳であった。

函館ゆかりの人物伝