函館市文化・スポーツ振興財団

リチャード・ユースデン (Eusden Richard)  1830年~没年不詳

函館をこよなく愛し、函館のまちづくりにも大いに貢献した、英国領事ユースデン夫妻。

リチャード・ユースデン

天保元年、英国に生まれる。幕末の箱館駐在英国領事宮。初めて箱館に着任したのは、初代領事ホジソンが罷免されて日本を去ったのちの文久1年で、副領事代理として箱館の居留地問題を処理。その後、慶応3年に領事代理として再度来箱し明治13年まで滞在する。明治5年、ユースデン夫妻は、食事も共にする程親しくしていた渡辺熊四郎に「公園とは病人に病院が必要なのと同様に、健康な人にも養生所が必要である」と力説、公園の必要性を理解させその実現に大きな貢献をする。工事にあたっては、浅田清次郎が現場工事一切の責任者となり工事が始められたが、資金が追いつかず役人、一般人、近郊の農民までが無償参加し、12年11月3日、函館公園開園。その記念にユースデン夫人は西洋クルミの木を植えた。

開園の2年前、熊四郎が貧困者のために無月謝の鶴岡学校を開設した際もユースデン夫妻は協力し、毎年25円の維持費を寄付し、函館駐在が満期となって帰国した後も、2年間送金を続けた。公共事業に対する熊四郎の熱意に対するものだった。

明治時代、洋服の普及に伴い、西洋洗濯が出現する。函館で最初に取り組んだのは「女紅場(じょこうば)」であった。女紅場は遊郭で働く女性のための技術指導と学業の場として明治11年蓬莱町に開設された施設で、和洋裁や和洗濯などと共に西洋洗濯が採用されたが、指導者がいないためほとんど行われなかった。この様子を知ったユースデン夫人は自宅で西洋洗濯の方法を教える。明治13年1月26日、会所町(現・元町)に「西洋洗濯伝習所」を開所し、ユースデン夫人に西洋洗濯の手ほどきをしてもらうが、同年10月領事と共に函館を離れ、この伝習所も翌14年1月で閉鎖されてしまう。わずか1年足らずの開講であったが、この伝習所の成果は、女紅場へと引き継がれていった。

箱館の英国領事館は安政6年9月、称名寺(現・弥生小学校付近)の一部を借りて開設された。現在の旧英国領事館は、大正2年9月に再築されたものである。

明治25年、熊四郎はロンドンの郊外アナクロードのユースデン夫妻を訪れる。帰国後も函館が忘れられない2人は、住宅の扉にホッカイドウハウスと英字で表記し、家具や装飾は日本品を使用、談話中にも度々日本語を交え、函館の様子を尋ねたり、熊四郎が贈ったライラック(旧市立函館図書館前の)の写真に喜色満面であったと渡辺熊四郎の欧米旅行日記に記されている。

函館ゆかりの人物伝