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村田駒吉 (むらた こまきち) 1834年~1890年

本道屈指の富豪にして広大な耕宅地を有し、温良にして聡明で内外の商勢に通じ、銀行業にも従事した村田駒吉。

天保5年4月、江戸に生まれる。父は萬屋平次郎と称し、駒吉7歳の時に病死する。祖母が越前福井藩の御用達を勤めた関係上、福井に行き同業を継ぐ。
しかし、駒吉16、17歳の頃、兄弟に事故があり家産を失い、家運が衰える。駒吉は母の願いにより商業見習と家運挽回のため箱館に渡る。某商店に勤務し辛酸を嘗めながらも努力を続け、3年後に独立して行商を営む。
多少の蓄財を得たので利益を拡大するために20歳の時、石狩国厚田場所(現・石狩郡厚田村)に至る。しかし当時の厚田は、人家が少なく、熊もしばしば出現して害をおよぼすような場所で、目的を達することが出来ず帰途小舟に乗り辛苦を嘗め、江差へ渡り箱館に帰ったときには資金を使い果たしてしまう。
荷問屋の長崎屋に奉公すること8年、再び独立して外国貿易の仲買を業とし、昼夜奮闘し、家に帰らずに海岸の空庫に寝泊まりすることもしばしばであった。これは翌朝早く浜辺に赴くためであったという。
以来、事業は順調に伸展したが、10年間に3度も大火にあうという不運に泣き、巨額の損失をこうむった。しかし、不屈の精神をもって業務に邁進して商運を盛んにし、中でも昆布の売買では僅か3日間で火災3回分の損失を回復したこともあり、家産を興した。
駒吉は早くから函館の先覚者・小林重吉と親交があり、重吉の商船学校を興すに当たり、大いにこれを助けた。また泉藤兵衛と協議して銀行設立の急務を認め、官に請うたけれども許されず、のち杉浦嘉七に謀り、明治11年、遂に銀行を設立する。これを第百十三銀行と称した。この年の4月7日、銀行株主一同が町会所に集合し、取締役として投票で泉藤兵衛、村田駒吉、田中正右衛門、小林重吉、安浪治郎吉の5名を選出した。
これよりさき長崎屋の家産がしだいに傾き始め、駒吉は千五百円を貸与して回復をはかったが、遂に再興することが出来ず、終世これを遺憾とした。
明治10年7月、函館相場会所副頭取に任じられ、14年1月には区会議員となり、当時函館区最大の事業である水道創設に関わる水道起業委員となる。函館にビール会社を作ろうと金沢、渡辺、今井、梅津、石塚らと共に発起人の一人として参画したが、これは失敗に終わる。他にも、北海道共同商会取締役等、数十年間一貫して函館の発展に努力する。
資性剛直にして慈愛の心深く、公共のため寄附を行い、常に正直であったため多年の商事にあっても紛争を醸したことはなかった。また、堅く依頼心を断ち、大金を借りて投資したことはなかったという。
晩年脚気を患い、明治23年4月20日、57歳でその生涯を閉じた。
函館の重鎮であり、功労者である村田駒吉の事蹟は、東別院境内に建てられている。

本文/「ステップアップ」vol.197(2005.8)より
(写真/函館市中央図書館、参考/「開道五十年記念・北海道」函館鴻文社発行、「北海道史人名辞典」第4巻 北海道庁史料編集所内発行、「北海道案内」萬巻堂発行、「函館人物誌」近江幸雄著))


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