函館市文化・スポーツ振興財団

村木甚三郎 (むらき じんざぶろう)  1848年~1924年

明治から大正にかけて旧函館区公会堂などを手掛けた北海道屈指の工事請負人、村木甚三郎。

村木甚三郎

嘉永元年3月3日、新潟県中蒲原郡亀田町で織物業を業とする林之助の長男として生まれる。15歳の時、同郷の大工棟梁・古山藤松の徒弟として奉公する。

慶応元年、高龍寺の建築工事に師匠と共に渡来し、明治2年に独立。小舟町(現・入舟町)に店舗を構える。12年の函館大火では、その再建工事で巨利を博し各方面の信用を得る。20年には釧路集治監の工事を請け負い、これを機に全道各地の工事等で財を成す。

さらに、富岡町(現・弥生町)の棟梁・山田平吉が亡くなるとその家族と子弟を引き取り山平の屋号を以て事業を拡大する。

明治40年の大火後も、42年に函館区公会堂建築および同敷地地ならし工事の入札が行われ、甚三郎が落札。43年9月に竣工となる。44年、7月の皇太子行啓に備える行啓道路修繕につき北守区長が甚三郎ほかの請負業者を招集。道路は4月1日より起工して6月15日まで、橋梁は6月30日までに竣工となる。

大正4年、私立函館図書館の書庫建築にあたって入札が行われ、甚三郎が落札する。同年、弁天町の厳島神社で上棟式(棟梁・村木甚三郎)と遷座式が行われる。幾度か火災にあったものの、境内には江戸時代の文政期の浄水盤や天保期の鳥居が残っている。8年8月、船場町(現・末広町)で函館海産商同業組合事務所(設計者・関根要太郎、工事請負・村木甚三郎)の上棟式をあげる。翌9年1月、新築した函館海産商同業組合事務所の落成式が行われ、組長佐々木忠兵衛が式辞を述べ、工事を請け負った甚三郎に賞状と記念品が贈られた。11年、函館病院外来診療所(設計者・関根要太郎、工事請負・村木甚三郎)が完成し、来賓約300名を迎えて公会堂で開所式が行われた。

他にも甚三郎が手掛けた仕事には、函館郵便局専売支局、北海道セメント株式会社の新工場、日本郵船株式会社函館支社、弥生小学校、高砂小学校、函館水電株式会社第二発電所堰堤、同新川町車庫、函館銀行、函館瓦斯株式会社亀田発電所、成田山函館別院、大黒座、大沼発電所堰堤、八雲駅の改修工事、長万部種馬所、幌別川水電等があり、官公庁や大会社の工事を請け負い道内に名を馳せる。

大正13年3月2日、北海道屈指の請負人となった村木甚三郎は76年の生涯を閉じた。

甚三郎には2人の息子がおり、長男・喜太郎は東京の工手学校を卒業後、宮内省内匠寮建築委員を拝命し赤坂離宮や沼津御用邸の建築に関わったものの、官を辞して家業を助けるが、32歳の若さで病死する。

次男の喜三郎は工手学校を卒業後、家督を相続し甚三郎を襲名する。国縫にあった馬政局の用地払い下げを受けて造材に力を入れると共に、弁天町に木工場を作る。その後、函館コンクリート会社を創立して社長となり、大正11年、第1期函館市会議員に当選。函館木材商組合長などの要職も歴任する。

函館ゆかりの人物伝