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村垣淡路守範正 (むらがきあわじのかみのりまさ) 1813年~1880年

遣米使節団の一員として世界一周に同行し、幕末きってのジャーナリステックな感覚で正確な情報をもたらした箱館奉行・村垣淡路守範正。

文北10年(1813年)の生まれで渾名(あだな)は初め範忠、のちに範正。先祖が職務についてから数えて5代目。正真正銘の御庭番の出である。祖父が前幕領時代の松前奉行を勤めた村垣淡路守定行で、この祖父の跡を追う形となった。
若い時から遠国御用や目安箱への投書について将軍から直々の指図を受けて探索するという任務を果すため、いろいろな姿に変装して潜入するなど、命がけの仕事を身をもって経験した。言うならば、当時の情報専門家であり、村垣らのもたらす情報が幕府の政策に反映し、世の中を動かしていたのだ。村垣は嘉永7年勘定吟味役を仰せつかり、同じ日に海防掛と蝦夷地御用掛を命じられた。
実際に箱館に着任したのは、安政3年の初旬のことであり、諸太夫、淡路守に任じられ、200俵に加増されてのことだった。
村垣は、井伊大老が登場してから勘定、外国、神奈川の各奉行を兼任し重く用いられたことと、仕事柄もあって保守派と見られたが、箱館奉行時代、堀や竹内など開明派の奉行を助け、ロシアや蝦夷地の情報を集めて、その対応や経営に当たった功績は決して小さくはない。
村垣は和歌を能くし、かの冷泉家の出題にも応えた和歌を作っているので、冷泉家の歌の地下人の1人であったのではないかと思われる。その作品には、着任した時に残した、「ふり積る雪の光にてりまさる函館山の冬の夜の月」とか、晴れ渡った大森浜を詠んだ「春の海の波静かなる函館や民の竃(かまど)の姻(けむり)にきあふ」等がある。
着任の翌年、アメリカの捕鯨船が入港。大統領の親書を携えた箱館在留貿易事務官ライスが来函する。村垣達は、捕鯨船の船長と共に上陸したライスと奉行所で会い、酒や料理、茶菓子でもてなしながら、その後も正に丁々発止の交渉を展開する。その時の様子を、鋭い観察眼で事細かに公務日記に書き残しており、当時の事柄を今日に伝える貴重な資料となっている。
安政6年9月、村垣は条約書交換の遣米使節を命じられ、翌万延元年の正月過ぎ、使節団の副使という枢要な立場で出発する。
使節団は、あのペリー艦隊の黒船の1隻ポーハタン号に乗船し、別に護衛艦として、咸臨丸に軍艦奉行木村摂津守、艦長として勝海舟などが乗り、日本人による初の大航海である太平洋に挑んだ。
村垣47歳。使節団は、アメリカ各地で熱狂的な歓迎を受け、歓待されたが、その晴やかな一行の中で、村垣はひたすら地味に事物を観察し続け、それを後世のために遣米使日記に書き残した。
帰国後、任地箱館に戻り、樺太国境問題の交渉、弁天砲台の完成に尽くし、文久3年箱館を去った。
足掛け8年の箱館奉行であった。
明治維新と共に隠居生活に入り、明治13年(1880年)3月15日死去。享年、68歳であった。

本文/「ステップアップ」vol.169(2003.4)より
(写真/市立函館図書館、資料/「箱館をめぐる人物史-19世紀人の光と影-」小林裕幸著 函館大学出版会)


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