函館市文化・スポーツ振興財団

エドワード・シルベスター・モース  1838年~1925年

江ノ島で研究活動を行い、大森貝塚を発見するなど日本の考古学研究の基礎をつくり、函館、北海道でも自然科学の調査、研究を行ったお雇い外国人。

エドワード・シルベスター・モース

アメリカの動物学者のモースはメーン州ポートランドで生まれた。明治10年6月日本腕足類研究のため来日して、江ノ島で研究。

1度帰国し、翌年再び、来日、東京理学部で動物学の初代教授となった。横浜から東京への車窓から大森貝塚を発見、その後発掘を行って報告書を刊行した。
これによって、近代科学としてのわが国の考古学研究の基礎がつくられた。

11年7月、動物標本採集のため北海道を訪れ函館に滞在、函館税関に研究所を設け、市中の貝塚を発掘調査し、近海の貝塚を採集研究した。
のち標本70余種を函館仮博物場に寄贈した。

ダーウィンの進化論を初めて日本に紹介し、大森貝塚を発見。
函館でも自然科学の調査・研究を行い、来函130年を迎えるお雇い外国人、エドワード・シルベスター・モース。

天保9年6月18日、メイン州ポートランドに生まれる。安政6年、ハーバード大学で海洋・地質・古生物学者のルイ・アガシー教授に師事し、後にボストン博物学会正会員となる。

慶応3年アガシーの門下生とマサチューセッツ州セイラムに「ピーボディー科学アカデミー(現・ピーボディー・エセックス博物館)」を創設し、学芸員となる。

明治10年5月29日、東京丸でサンフランシスコを出港。6月17日横浜に着く。モースは貝類の研究が専門で、腕足類(シャミセンガイ)の研究のため来日。日本初の臨海研究施設となる江ノ島臨海実験所を設置する。同年、東京大学初代動物学教授となり、明治10年から13年にかけて生物学を教える。一方、日本における科学的な考古学研究の第一歩を記す。

横浜から東京に向かう汽車の窓から貝殻が積み重なっているのを見て貝塚であることに気付き、それが大森貝塚の発見となる。発掘の成果は、明治12年に”Shell Mounds of Omori”の書名で発掘報告書が刊行される。その書の中で、日本列島において石器時代が存在したことを立証するとともに、貝塚から出土した土器に縄目文様が付いていることに注目し、”cord marked pottery”と呼んだことから縄文土器の名称が付けられるようになる。

モースは動物標本・博物学標本等の採集のため学生を伴って北海道から九州まで全国各地へ調査・研究の旅行をする。

今から130年前の明治11年7月16日に函館港に到着し、同月29日まで函館に滞在。8月4日に再度来函し17日まで滞在する。その間に採集した貝類標本は、当時の「函館仮博物場(現・市立函館博物館)」に寄贈される。函館における博士の生物学研究は、当時の「函館船改所(現・函館市臨海研究所)」の一部を借用して行われた。

函館では、当時モースが実際に見たものが今も当時のままに見ることができる。それはわが国で現存する最古の博物館とされている「旧函館博物館1号」と、ブラキストン宅を訪ね、そこで見たいくつかの「石斧」で、この石斧は同時期に函館を訪れていた地震学者の英国人ジョン・ミルンも見ていた記録がある。

明治13年、日本から戻ったモースは「ピーボディー科学アカデミー」の館長となる。

明治15年、日本の陶磁器や民具に関心を抱き、収集のため再度来日する。ボストン市に持ち帰ったものが「モース・コレクション」として、当時の日本人の生活を知る貴重な資料になっている。また、「ピーボディー・エセックス博物館」にも日本民臭が収蔵されている。

日本人と日本文化を生涯愛し続け、本当の日本を世界中に紹介した等の功績により皇室から明治31年に勲三等旭日章、大正11年に勲二等瑞宝章を授与される。
大正14年12月20日、セイラムで死去。享年87歳。

函館ゆかりの人物伝