函館市文化・スポーツ振興財団

水谷準 (みずたに じゅん)  1904年~2001年

幼少期から函館の新しい独自な文化の影響を受け、自らも作家として活躍しながら、多くの作家を育てた当時の若者向け文芸誌「新青年」の編集長・水谷準。

水谷準

明治37年3月5日、船見町に生まれる。本名納谷三千男。父がパン屋を営んだり、外国人の執事をしていたため、三千男少年を外国人がジョンと呼び、それがペンネーム「準」のきっかけとなった。

43年、弥生小学校に入学。小学生時代に鈴木三重吉の「赤い鳥」に童謡を投稿し入選する。大正11年、旧制函館中学(現・函館中部高校)を経て、早稲田高等学院に進学。高等学院在学中に日本のタンテイ小説の父・森下雨村によって創刊された雑誌「新世界」の懸賞小説に「好敵手」が当選し、作家への第一歩を踏み出す。

大正14年、早稲田大学仏文科に進学。この年、雑誌「探偵趣味」が創刊され、翌春から学生のまま編集を手伝いつつ夏には実質的な編集長として活動、「新青年」に「空で唄う男の話」や「お・それ・みを」「胡桃園の蒼白き番人」など次々と作品を発表し、推理作家としての地位を築いていく。独特の趣味と機智を感じさせる作風で、幻想浪漫的なミステリーが多く、またユーモア探偵小説を提唱したりした。

昭和3年、早稲田大学卒業。横溝正史の推薦で博文館に入社し「新青年」の編集に携わる。4年7月、延原謙の後をうけて「新青年」の第4代編集長に就任。フランス風の洗練された感覚を全誌に漲らせていた。

以後18年間もの長きにわたり編集長を勤めていく。また水谷準は「新青年」の編集長のかたわら、同誌をはじめ「宝石」「改造」などにも多くの作品を発表。また編集長の重責を担いながら、日本推理小説の「三大奇書」の一つ「黒死館殺人事件」を書いた小栗虫太郎や「海軍」で知られる獅子文六、木々高太郎など多くの新人作家を世にデビューさせる。その中の一人が同郷の直木賞作家・久生十蘭だった。

昭和22年、江戸川乱歩を中心に探偵作家クラブが結成され、編集者生活を終えた水谷準のために小冊子「友情録」がまとめられる。探偵小説集「薔薇と蜃気楼」のほか、時代小説なども手がけ、「瓢庵先生捕物帖」等を刊行する。

昭和27年、「ある決闘」で第五回探偵作家クラブ賞を受賞。その他に「カナカナ姫」「窓は敲かれず」などがある。翻訳面では、ルルーの「黄色の部屋」、マシャールの「鎖の環」、シメノンの「聖フォリオン寺院の首吊男」などがある。

平成13年3月20日、肺癌のため逝去する。享年97歳だった。

水谷準が文学に目覚めたのは旧制函館中学時代。丹下左膳を生んだ作家長谷川海太郎の弟二郎の影響だった。戦後は創作活動に専念し、ゴルフ関係の翻訳、著作に集中し、翻訳したベン・ホーガンの「モダン・ゴルフ」は今でもゴルファーの古典となっている。ゴルフの腕前は文壇一と言われた。

函館元町生まれの個性あふれる作家たちの誕生には、編集長・水谷準の功績が大きかったと言える。

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