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宮本武之助 (みやもと たけのすけ) 1868年~1955年

北海道の将来性をいち早く見抜き、布衣より身を起こし一代にして巨万の財をなした清廉高潔な人格者、宮本武之助。

明治元年9月6日、滋賀県蒲生郡棲川村の豪族治郎右衛門の二男として生まれる。18歳にしてすでに北海道の将来性を見抜き、郷里を出て単身渡道し、函館で時機の到来を待つ。
明治19年、仲浜町(現・大町)の海産仲買商吉田商店に月給3円で奉公する。吉田商店で数年間誠心誠意従事し、25年独立して、海産仲買業を開業する。しかし、順風満帆とは行かず28年には失敗し、財産を全てなくす。
明治29年、日清戦争で日本は大勝利を告げ、海運界は大活況を呈してくる。この絶好の機を見逃す筈もなく武之助は直ぐに回漕店の荷物取次業を開始する。次いで31年頃より露領サガレン島(現・サハリン)の漁業が盛んとなり、同島目指して出漁する船舶は年と共に増加、武之助はこの出漁船に対して大半の取扱いをなす地盤と基礎を作り、業績を大いに挙げ、34年には汽船2隻を購入して、一躍船主に出世する。
しかし、この成功も長くは続かず、翌35年には事志と反して苦心惨憺の結晶とも言うべき汽船を手放さざるを得ぬ悲境を嘗める事になる。断腸の思いで汽船と決別、これに懲りてその後船舶には2度と手を出すことはなかった。大正中葉時代に於ける欧州大戦による船舶の黄金時代が訪れ、船舶界は古今未曾有の大活況を告げるが、武之助はただ傍観するのみであった。
一介の海産仲買商より身を興した武之助は、人生行路の大半の労苦は嘗め尽くした。七転び八起きの哲理を実践躬行し、如何なる苦痛に遭遇しても鉄のように固い心は一難ごとにますます錬えられていった。
武之助は非常な敬神家で、昭和3年「人生の軌道」と銘打った人生訓をパンフレットにして各方面に配布している。
戊辰の役・箱館戦争に際して北海の土と化した幕軍の戦没将士は函館八幡宮の隣接地に、一片の石碑「碧血碑」となってその武勲を辛くも後世に伝えるのみを見て、この戦に殉じた官軍はすでに招魂社に祀られ、朝敵の誤解は受けたが主君に奉じた忠勇なる之等の将士をこの荒涼な地に置くのは現代人の道ではないと自ら先頭に立ち碑の手入れをし、函館の名所の一つと言われるよう一役かった。
昭和9年の函館未曾有の大火に際し幾千の犠牲者のため新川提に慰霊堂を建設することとなり、武之助は無名で数万円を寄付する。その後、無名で寄付する者が現れ、巨額の金が寄付された。隠れたる無名の寄付者の浄財により慰霊堂は建設された。
また、自身が出馬する予定だった選挙の運動資金を函館盲学校に寄付し、少年少女のために温かい同情を寄せた。外にも無名や匿名で様々な処に寄付をし、覆面の救世主とも言われた。
布衣より身を起こし一代にして巨万の財をなし、至誠奉公の純情の念に燃える熱血の精神家であり清廉高潔な人格者、宮本武之助は昭和30年2月5日急逝した。
大正6年、函館区会議員当選。
大正13年、函館商工会議所議員当選。
昭和5年、紺綬褒章を賜る。

本文/「ステップアップ」vol.196(2005.7)より
(写真/「函館名士録」、資料/「函館名士録」、昭和30年2月7日付け「北海道新聞」)


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