函館市文化・スポーツ振興財団

三橋 美智也 (みはし みちや)  1930~1996

NHK紅白歌合戦に14回出場し、「古城」などのヒット曲を始め一億枚以上のレコードを売り上げ、歌謡界に多大なる功績を残した、三橋美智也

三橋 美智也

昭和5年11月10日、セメント会社作業員頭の父・亀蔵、母・サツの長男として上磯町に生まれる。8年、父・亀蔵が作業中に落盤事故で死亡。渡島当別に転居する。母は川田男爵イモ農場に住み込みで働き、翌年川田農場作業員金谷五郎と再婚する。

昭和11年、養父が国鉄職員となり、万代町に転居する。劇場「巴座」(現・函館ロイヤルホテル駐車場)の民謡大会において、「江差追分」で初舞台を踏む。巴小学校に入学。14年、北海道民謡コンクールで「江差追分」を歌い優勝。海で右耳をウツボに突っつかれて難聴になる。17年、小学6年生の冬にコロンビアレコードで初のレコーディングを行う。曲は、「江差追分」「博多節」他であった。的場高等小学校に入学する。

昭和20年、小学校卒業後、国鉄・木古内保線区の日雇作業員になる。22年、16歳で三浦為七郎民謡一座、陸奥乃家演芸団に参加する。

昭和25年、上京。網島温泉「東京園」にボイラーマンとして就職する。日本民謡協会の初舞台で「相馬盆唄」を歌う。

昭和27年、明大中野高校に入学。「東京園」で世話になった北沢家と養子縁組する。NHK邦楽オーディションに合格。28年、キングレコードと専属契約をし、「酒の苦さよ」を初レコーディングする。

昭和30年、春にレコーディングした「おんな船頭唄」が初のヒットとなる。翌年、第7回NHK紅白歌合戦に初出場、「哀愁列車」を歌う。以後10年間連続出場を果たす。

昭和35年、文化放送ラジオ番組「三橋美智也ショーを」が視聴率1位を獲得する。37年、レコード売上一千万枚突破記念パーティを開く。「星屑の町」で第4回日本レコード大賞「歌唱賞」、48年芸術祭大衆芸能部門二部「優秀賞」を受賞する。翌年、明治製菓「カールおじさん」CMオンエアー、以後20年間テレビ放送される。※「巴座」は、回り舞台に升席の劇場で、巴座劇団の芝居や剣劇、歌舞伎などが行われた。昭和28年に純実演劇場から映画上映劇場へ転向、平成5年に閉館した。

昭和53年、ラジオ関東(現こフジオニッポン)「電撃ワイドウルトラ放送局」ディスクジョッキーでミッチーブームが起こる。「日本レコード大賞20周年記念顕彰」受賞。翌年、ミッチーブームで「ゴールデンアロー賞特別賞」、ブラジル公演「最高勲章」を受賞する。

昭和59年、「日本歌謡大賞演歌功労賞」を受賞。平成5年、日本レコード大賞「功労賞」受賞。平成7年、ゴルフ帰りのタクシーの中で突然、意識不明になり倒れる。大阪大学附属病院で治療を続けるが、翌年の1月8日、多臓器不全で逝去。2月5日、青山葬儀場で音楽葬が行われた。

平成28年に迎える没後20年記念と同時に開業される北海道新幹線「新函館北斗駅」の駅前に「生誕の碑」建立が決まった。

函館ゆかりの人物伝