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松平 太郎(まつだいら たろう)(1839~1909)

箱館戦争で榎本軍の副総裁を勤めた幕臣、松平太郎

天保10年、禄高150俵の幕臣、松平九郎左衛門の子として生まれる。名は正親。
安政3年、表祐筆(おもてゆうひつ)※として勤めに出る。代々の幕臣で、洋式兵学を学び、慶応3年6月、外国奉行支配組頭に転じて陸軍奉行並、歩兵奉行等に昇格する。
慶応4年1月、戊辰戦争が勃発すると、2月には歩兵頭を経て陸軍奉行並に任命され、陸軍総裁・勝海舟の下で旧幕府軍の官軍への反発を抑える役目を負うが、主戦論者※だった松平は榎本武揚や大鳥圭介らと図って自らも抗戦に参加する。江戸を脱出し、下野国今市(現在・栃木県日光市今市)にて大鳥と合流、軍資金を届け、その後会津戦争で敗れると榎本らと共に蝦夷地へ渡る。
明治元年10月20日、榎本武揚率いる艦隊が森町鷲ノ木に上陸。箱館を目指す。ほとんど無傷で五稜郭を占領。箱館政権を樹立する。総裁選が行われ、「公選入札」(選挙)において榎本(156票)に次ぐ得票(120票)を得て、箱館政権における副総裁に就任する。主に民政・外交面で活動し、榎本の女房役を務める。「洋才の榎本、和魂の松平」と言われ、人望は厚かった。
明治2年5月、新政府軍の総攻撃の際には、奮戦するも敵わず、18日に降伏。6月7日、五稜郭開城後、榎本らと東京に護送され、榎本や大鳥らと同様、東京辰の口糾問所(きょうもんじょ)に禁固となる。5年に釈放され、明治政府に開拓使御用係・開拓使五等出仕に任じられて箱館在勤を命じられるが、翌年には辞任する。
その後は、久留米県・三池県・梁川県の3県が合併してできた三瀦県(みずまけん)権参事を経てロシアのウラジオストクに外務省7等出仕して派遣されるがほどなく退官。この時代にカニの缶詰の取引に手を出して、大失敗して莫大な借金を背負い生涯貧乏をした。また、化学者である榎本の手引きで石鹸製造に手を出した事もあるがこれも上手くいかず、とうとう世事を絶って流浪の日々を送る。晩年は、妻子に先立たれ、榎本の保護下で生活していたと言われる。
明治42年5月24日、相洲下河津村(現・静岡県河津町)で病死。享年71歳。
旧徳川幕府軍幹部の中でも明治期に不遇だったせいか、榎本武揚や大鳥圭介に比べると知名度は劣るものの、大変有能だったとされる。

※表祐筆=江戸幕府の職制の1つ。幕府の書記としての役目。
※主戦論者=戦争することを主張するもの。
前列中央ブリュネの左隣が松平太郎

本文/「ステップアップ」vol.320(2015.11)より~NO.300
(写真/函館市中央図書館
参考資料/「北海道史人名事典第四巻」、「國史大事典第十三巻」、「子母沢寛全集24」、総覧「箱館戦争」須藤隆仙著 他
取材協力/函館市中央図書館)


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