函館市文化・スポーツ振興財団

松代 林太郎 (まつしろ りんたろう)  1878~1934

多くの門弟を育てた函館柔道界の草分け、松代林太郎

松代 林太郎

明治11年12月、大野村(現・北斗市)の旧家松代伊兵衛一族の松代良吉の次男として生まれる。函館商業学校から東京専門学校(現・早稲田大学)政治科に進み、35年卒業。その間、講道館で柔道を修行し、嘉納治五郎に鍛えられ四段格を取得する。講道館には、小説「姿三四郎」のモデルとなった西郷四郎らの後に続いて入門したと言われている。人一倍、稽古熱心だったらしいが、技の上達には心の修行が大切であるとして、鎌倉の円覚寺に通って参禅した。

東京専門学校を卒業後は、静岡中学校、山口高等学校、山口県師範学校及び山口中学校の柔道師範を嘱託され、39年函館に帰り、函館商船、函館中学、函館商業の各学校の柔道嘱託教師を勤める。

大正元年、青柳町(函館公園の正門右側)に道場「高揚(こうよう)社」を開く。高揚社の高揚は「武士は食わねど高楊枝」のことわざからとられた。傍ら各中学校(旧制中学)でも指導をし、専心講道館柔道普及に尽力する。この間、2500名もの入門者がおり、中学校などで教えた者も含めれば、その数は幾倍にもなる。また、武道だけではなく、函館毎日新聞記者としても活躍し、愛猶子(あいゆうし)と号して俳句をたしなみ、囲碁に長じた。

松代の柔道は、生死を超え、勝負にこだわらず、名声を狙うことも無く、武士道を重んじた。立ち技でよし、寝技またよし、浮き技をよくして左右のツバメ返しの如きはまさに神業というほかなかったという。また、門下生でツバメ返しに投げられぬ人はいなかったという。常に自然体に立ち、上品な技を左右から打ち出して相手を攻め、最後で浮き技をもって打ち取るあたり後進の手本とすべきものがあったという。また寝技にしても然りで柔道の専門誌に日本一と番付に載ったこともあったという。逆業の如きも古流諸般に通じ、立ち合い逆手投げの見事さは古流の大家を彷彿とさせるものがあったそうだ。

昭和9年、病により鎌倉にて死去。

平成26年11月2日、青森と函館の柔道愛好家が鍛錬の成果を競う恒例の「青函対抗柔道大会」の60回目の記念大会が開催された。

大会の始まりは、松代林太郎の愛弟子、永沢誠蔵が出身地の青森県で柔道を広めたのが縁となって、昭和14年から行われた「函館柔道振興連盟対オール青森軍」。終戦の20年から中止されたが、30年に「青函対抗」として復活。以後、毎年函館、青森相互に開催している。

函館ゆかりの人物伝