函館市文化・スポーツ振興財団

松川 弁之助 (まつかわ べんのすけ)  1802年~1876年

越後で生れ、父の蝦夷地開拓の遺志をつぎ、北地開拓の惰熱に半生を捧げた松川弁之助。

松川 弁之助

亨保2年4月9日、越後国蒲原郡井栗村(現・新潟県三条市井栗)で、産声をあげた。名は重明、弁之助とも三之助とも、あるいは三弥ともいった。父は6代目三之助で、その第6子であった。兄たちはみな早死にしてしまい、達者に育ったのは彼だけであった。

弁之助が生まれた時、父は付近7ヵ村をふくむ井栗組の大庄屋になっていた。山林・田畑などは、12ヵ村におよんでいたという。
父三之助は、名を重基、号を渭水(いすい)といった。文武両道に通じ、仏典にも明るく、和漢の学にも深かった。

塾を開いて付近の子弟の教育をしたり、道路をつくるなど公共の事業にも非常に熱心で、この方面の仕事にも、色々と手を伸ばしていたという。
また、北辺の開拓経営にも関心を持っていた。

弁之助が、死んだ父の後を継いだのは42歳の時であった。父の血筋を引いたためか、生来、峻厳で質素倹約をむねとした。父母には孝養をつくし、また学問・武芸を好んだ。江戸に上って市川一学(高崎藩の兵学者、松前城の設計者)の門に入って兵学を学んだ。
後に箱館奉行組頭となった河津三郎太郎とは、同門で蝦夷地との深い関わりを持つ。この2人の交友が北方開拓の端緒となった。

安政2年7月、父の遺志をついで、北方開拓の壮挙にのりだそうと決心し江戸へ上る。幸いな事に、幕府から蝦夷地御用方の命を受け、翌年蝦夷地へ渡ることになる。この時、弁之助55歳であった。
手人(配下の者)数10人を引きつれて、海路を箱館へ渡った。そして、箱館奉行所から箱館御用取扱を命じられた。奉行所の命により、谷地頭に”御用畑”(官営の畑)を開いた。次に、箱館近郊8キロの石川に、官営の”御手作場”を開くことになる。

弁之助は、内澗町に本店を設け、(まるだて)の屋号を用いた。奉行所も弁之助の功を認めて援助を惜まなかった。その一例として、手人に鑑札を渡し、越後と箱館との間の往来の便をはかった。

当時、箱館は、北辺守護の基地として、弁天崎お台場(弁天台場)や、亀田お役所土塁(五稜郭)の築造が始まろうとしていた。弁之助はこの工事に関わり、さらに五稜郭の工事の際、物資を運搬する道路を自費で完成させた。人々はこの道路を”松川街道”と呼び今日、松川町の町名として残っている。

一方、樺太奥地の開発を出願し、安政4年から文久元年にかけて私財を投じ、更に親族の協力を得て13ヵ所の漁場開拓を計画、延べ400人余りの作業員、漁民を送り込んだが、越年で25人の命を失い、手船22叟で物資を補給し、会所、番所など各地に設けたが、不漁続きと病人続出で資産の全てを失う。

差配人元締を辞退し、文久2年、漁場・建物・埋め立てて得た土地などを幕府に上納し、負債にあて帰郷した。
弁之助は、老後を郷里で送っていたが、明治8年のカラフト・千島交換の報を聞き、「これは、みなじぶんの罪だ」と、非歎にくれていたという。

その翌年、明治9年7月27日、病によりこの世を去った。享年75歳だった。

函館ゆかりの人物伝