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函館市文化・スポーツ振興財団 Foundation for Culture and Sport Promotion in Hakodate

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益田 喜頓(ますだ きいとん) 1909年~1993年

夢多き小学校時代、アメリカの喜劇映画に魅せられ、中学時代は名三塁手として野球狂の日々を過ごした木村一氏の人生の転機。ボードビリアンから日本のミュージカルの発展に貢献し、ふるさと“函館”に永住帰郷した益田喜頓さん。

明治42年9月11日、青柳町に生れる。本名木村一。先祖は会津藩の武家で、戦さに敗れ、新潟から船で函館へ逃れてきた。若かった祖母は母親を抱いて木村家へ後妻として入籍した。当時、木村家は土木請負業を経営し、石山も2ヵ所あった。又七飯村には杉林で囲まれた何万坪もある別荘を持ち、年間の半分はこの別荘で過ごした。
急転直下。7歳の時祖父が亡くなり、父親の代で事業は失敗。父は祖母、母、そして5人の兄弟(後に末の妹ができる)を残し、アメリカで一旗あげると言って蒸発した。一家は谷地頭の長屋のような小さな家へ移転。貧しい生活状態が続いた。この頃から、喜劇映画が好きになり、映画館のチラシまきを手伝い、アメリカ短編喜劇をみた。特に「チャップリン」「バスターキートン」「ペン・タービン」「ハリー・ラングトン」「ロイド」などスラップスティック喜劇が大好きだった。
大正12年、住吉小学校から北海道庁立函館商業学校へ進学する。16歳の時、文豪トルストイ、チェーホフを愛読し、小説家になろうと原稿用紙に向う日々が続いた。
一方では野球部に席を置き北海中の高瀬か函商の木村かと言われたくらいの名三塁手であった。その高瀬が立教大学へ行ったあと北海中に引き抜かれた。ところが、大会前に体をこわし函館へ帰る。回復後も学校へは戻らず1年以上の浪人後、昭和3年埜邑漁業という蟹工船の会社へ入社。名門“函館太洋倶楽部”へ入部という条件のもとだった。
当時の函館太洋倶楽部はほとんどが早稲田大学を卒業した日魯漁業会社の社員で、主将・久慈次郎は独立して運動具店を経営していた。ここで久慈次郎から役者稼業に入ってからもためになる教訓を野球を通して教わることになる。
そして人生の大きな転機を迎える。野球選手として致命的な欠点があった。野球選手としての大切な3条件の一つにランニングがある。ところがタイムウォッチがあくびをするほどの鈍足で、普通ライトのラインぎわを抜いたヒットなら速い人は三塁まで走るが二塁に達するのがやっとというほどであった。久慈次郎から東京でプロのチームができるが入団しないかと誘いがあったが、埜邑漁業に勤めており、何よりも鈍足のため自信がなく断念した。
それ以来、野球に魅力をなくし演劇研究会の方へだんだんと傾いていった。
昭和5年、小樽の五十嵐財閥経営の貿易商社へ入社。同時に同財閥資本で、札幌に「赤い風車レビュー団」が結成され、こちらを手伝うことになる。翌年解散。夢の浅草へ進出、吉本興業へ入る。万盛座を経て、花月劇場で花月ショーに出演する。
11年、川田義雄・芝利英・坊屋三郎らと「あきれたぼういず」結成。ジャズや流行歌の替え歌からパロディー、ギャグで一世を風靡した。
13年11月、花月劇場のプリマドンナでジャズ・シンガーの“ミス花月”のツヤ子さんと結婚。
14年、新興演劇部との再契約を断り、あきれたぼういずを脱ける。17年、大映映画「歌う狸御殿」で高山慶子に恋する池の河童の役でバスター・キートンを思わせる演技で好評を博す。18年、「益田喜頓一座」を結成したが大阪で空襲にあい、函館の弟の家へ逃れる。芽室で妹の夫が経営する製材工場長として北海道で終戦を迎える。
21年、「あきれたぼういず」再結成、浅草で話題となる。しかし、川田義雄は独立して活躍しており、芝利英は戦死。メンバーは坊屋三郎、山茶花究の3人であった。アメリカ巡業なども行ったが3人1組としての役には限度があり別々に出演することが多くなった。
32年、東宝演劇部に菊田一夫との契約で入社、自分で一番印象に残っている舞台の一つに菊田一夫脚本・英国「チップス先生さようなら」の日本版「がっこの先生」(昭和34年)がある。この年芸能生活30周年を迎えた。それから4年後、ミュージカル時代を迎え「マイ・フェア・レディ」にピカリング大佐役で出演することになる。この作品が日本で最初の「ブロードウェイ・ミュージカル」となり、毎日芸術賞・演技賞を受賞する。そして、「王様と私」「屋根の上のヴァイオリン弾き」と次から次へとブロードウェイ・ミュージカルに出演する。「屋根の上のヴァイオリン弾き」の司祭役は、42年9月3日の初演以来907公演に出演し主役をしっかりと支え、舞台に厚みを出した。
平成2年5月、ふるさと函館に”永住帰郷”する。函館においては、仕事の傍ら講演活動なども行い、他にも「野外劇」のナレーション、函館ミュージカル劇場が6年に公演した「案山子物語」の原案をつくるなど市民の中に溶け込み、活動を共にした。
平成5年12月1日、喜劇とふるさと函館をこよなく愛し、いぶし銀のような演技を残して、大腸がんのため五稜郭病院で死去した。享年84歳であった。
2度にわたる菊田一夫演劇賞特別賞をはじめ、日本演劇協会功労賞、浅草芸能大賞の受賞、さらに昭和52年紫綬褒章、昭和59年には、勲四等旭日小授章の栄誉に輝き、平成2年9月には函館市が創設した「函館市栄誉賞」の第1号受賞者となった。
芸名の益田喜頓がアメリカの喜劇俳優バスター・キートンに由来しているのは有名な話である。

本文/「ステップアップ」vol.98(1997.5)、vol.99(1997.6)より
(写真/木村房枝、資料/「キートンの人生楽屋ばなし」益田喜頓著、「益田喜頓作曲・下町交狂曲」、「キートンの浅草ばなし」益田喜頓著、他)


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