堀 達之助 (ほり たつのすけ) 1823年~1894年
ペリー来航の際通訳を務め、我が国で最初に刊行された英和辞典「英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書」を編さん。また、「函館文庫」を創設した先覚者・堀達之助。
文政6年5月9日、オランダ通詞・中山作三郎武徳の五男として長崎に生まれる。後に同役の堀儀左衛門の養子となる。
弘化2年、オランダ小通詞末席となり、父の跡を継ぐ。
嘉永元年、漂着した捕鯨船員マクドナルドから、日本で初めて英語を学んだと言われている。6年6月3日、黒船が浦賀沖に現れたとき、浦賀奉行所与力の中島三郎助が、最初に旗艦サスケハナ号を訪れた際に同行したのが、堀達之助で、日本人として初の英語通訳として交渉に当たった。この時の通訳の仕事を通して、達之助の語学の才能がアメリカ人にも認められ、翌年の日米和親条約の和解(和訳)にも当たることになる。
その後、伊豆の下田詰(づめ)となり、安政5年9月、ドイツ通商要求書簡独断没収の罪で入牢となる。このとき獄中で吉田松陰と対面、以後交流を続ける。翌年12月に赦免され、幕府蕃書(ばんしょ)調所の対訳辞書編集主任として迎えられる。万延元年12月、筆記方も兼任。外国新聞の翻訳刊行に当たり、文久2年1月、「官板バタビヤ新聞」を発行する。
文久2年、達之助らが中心となり、ピカード編「新ポケット英蘭辞典」(代版)の蘭語の部に日本語をあてはめた「英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書」を編さん、収録語数は約3万7千語。主として「和蘭字彙」(おらんだじい)の訳語によって翻訳した。我が国では活字本として最初に刊行された英和辞典で、蘭学研究の成果を英学へ継承した業績として、洋学史上大きな意義がある。後年に再版が出るなど、日本の英語研究の基礎を築く。
慶應元年、函館奉行所通詞として着任する。名村五八郎の後継として「英語稽古所」を引き継ぎ、翌年には「函館洋学所」を開設する。ここで函館市中央図書館や函館中部高校に今も残る「函館文庫」を創設することとなる。
幕末に海外から箱館に渡ってきた洋書は「諸術調所」などで使われた後、運上所に置かれた。これを達之助が「箱館洋学所」に借り受け、明治4年から6年に整理したものがこの「函館文庫」である。
明治元年、箱館裁判所参事席文武学校掛を命じられるが、箱館戦争のため南部に避難する。翌年箱館に戻り、維新後も開拓使に務め、大主典一等訳官となる。3年に柳田藤吉が起こした北門社郷学校で英語を教え、5年廃止後は開拓使仮学校で、英学を教授した。
明治5年、老衰および多病のため職務を遂行できないと杉浦中判官に辞表を提出し、受理され、10月2日をもって依願免職となり、郷里の長崎に帰る。退職時の名は、堀達之とある。
明治27年1月3日、五代友厚(大阪の実業家)の片腕となっていた大阪の次男・孝之宅において、72年の生涯を閉じた。33年に長崎市鍛冶屋町の大恩寺に改葬され、その墓碑にも「堀達之翁之奥城」とある。