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堀川 トネ (ほりかわ とね) 1860年~1925年

日本地震学の父ジョン・ミルンと結婚し英国へ渡った明治の函館の女性、トネ・ミルン。

堀川トネは、万延元年11月願乗寺(西本願寺函館別院の別名)の住職堀川乗経の長女として生まれた。当時の函館は、奉行所のあった大町を中心として、既に市街を形成しており、トネ誕生の1年前には貿易港として開かれ、各国居留外国人も珍しくなかった。明治5年9月、12歳のトネは函館から選ばれた他の5人と共に東京芝増上寺の開拓使仮学校女学校へ入学する。単身上京したトネは、不幸にして病となり志なかばで帰函する。
明治8年10月、函館に帰ったトネは、15歳になろうとしていた。しかし故郷函館もけっして住み良い所ではなかったようだ。特にトネが士族出で開拓使出仕の若者との縁談を断わってから、街の人々の風当たりは強まった。明治11年6月、トネの最大でかつ唯一の理解者だった父乗経が急死した。この時、将来英語の私塾を開きたいと決意する。この夏、傷心のトネはブキストンからジョン・ミルンを紹介される。ジョン・ミルンは、明治9年にお雇い外国人教師として、英国から工学寮に招かれて来日。鉱山学、地震学を教えていた。地震学会設立の中心的人物であり、地震学の父といわれた。知り合ってから1年後ミルンと再会したトネは、自分の過去を打明けて結婚の約束をする。翌明治13年、トネはただ独りで東京のミルンのもとへと函館をあとにした。翌年5月、霊南坂教会で2人は結婚式を挙げた。ミルン満30歳、トネ満20歳であった。「2人が多くの問題に直面するのは避けられなかった。しかし何よりも難しい障害は宗教の違いだった。トネは住職の娘であり、家族は長い間深く僧職に関係していた。他方、ジョンはキリスト教徒で、大学時代神学を勉強して、キングス・カレッジの評議員になっていた。トネの父が他界してことはよけいめんどうになっていた。ミルンが前年の夏住職に会っていなければ、トネのことについて”口をきいて”いなければ、もはや親の祝福を求めることはできなかった。」(ミルン伝より)教会で式は挙げたものの、婚姻届けが出されたのは、2人が渡英する寸前であった。ここに、世間一般の形式的なものにこだわらず自分の意志で外国人との恋愛結婚を貫いた新しい女トネをみる。トネは夫について永住覚悟で明治28年6月、日清戦争の勝利に沸く日本を去る。ジョン・ミルンが帰国を決意したのは、国粋主義的風潮の高まりの中、彼の指導を受けた日本人が専門家として一人立ちし、ミルンが地震学において「重要な人」ではなくなったためと言われている。直接の契機は、原因不明の火災で住宅と観測所が全滅したためらしい。
ミルン夫妻は、気候が温和で地震観測に最適な南イングランドのワイト島シャイドに居を構え、観測に、各地からの多くの訪問者の接待にと多忙な生活を送った。
大正元年、ミルンが東京から連れていった協力者広田忍氏が病となりその妻と共に帰国。翌2年、最愛の夫ジョン・ミルンが亡くなった。身近かに日本語を解する者もなく一人となったトネは、神経痛に耐えながら6年間シャイドで過ごした。夫ジョンのねむる土地を去り難かったようだ。やがて欧州大戦となり、大正8年に帰国、6年後の大正14年湯の川通りの自宅で67歳の生涯を閉じた。英学への意欲と挑戦、単身上京、お見合い話しを断わり外国人と恋愛そして結婚、永住覚悟の渡英等々波瀾万丈の人生であった。

本文/「ステップアップ」vol.67(1994.10)より
(写真/函館市中央図書館、資料/「女の海溝 トネ・ミルンの青春」森本貞子著、「道南女性史研究」第5号「トネ・ミルンを追って」酒井嘉子著)


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