函館市文化・スポーツ振興財団

堀川 乗経 (ほりかわ じょうきょう)  1824年~1878年

良水に乏しい町であった箱館に願乗寺川と呼ばれた水路を開削し、箱館の発展に大いに尽力した開拓功労者で真宗本願寺派の僧・堀川乗経。

堀川 乗経

文政7年4月、陸奥国(現青森県)下北郡川内村願乗寺(真宗本願寺派)五世誠道の次男として生まれ、初め法恵(ほうえ)といった。8歳にして父を亡い、長じて諸国を遍歴し、天保12年始めて北海道に渡り、本願寺派の寺がないのに義憤を感じ、安政2年本山を動かして幕許を得、4年小樽と箱館に同派の寺宇を建立した。のちの小樽別院と函館別院であって、北海道最初の本願寺派寺院である。

6年、本山に諮り、但馬や北陸道から信徒370余人を濁川(にごりかわ・現渡島支庁上磯町清川)に入植させて開墾し、また箱館市中への給水を考え、亀田川を堀割で導き市街が東部へ伸びる要因をなした。

箱館はもともと良水に乏しい町であった。文化3年ころ、箱館奉行所の富山元十郎が発見した箱館山の泉は「富山泉」と呼ばれ、奉行所や役宅、そして付近の住民にも利用させた。

その後、市街が順次発展して亀田村方面に向って延びていったが、その地帯は砂地であったので、地下水は海水同様で使用することができず、ここでも水に不自由した。これを案じた法恵は、住民の悩みの種である飲料水の確保に知恵をしぼり、土木工事の専門家である松川弁之助と知り合い亀田川の開削工事で水利の便を計ることとした。

当時の亀田川は、現在の亀田八幡宮のあたりから湾内に注いでいた。それを中の橋を縦断して十字街あたりにあった堀割までまっすぐに流そうというものだった。安政6年5月に工事を始め、その年の11月に完成した。川の長さは、約4キロメートルあり、願乗寺川または堀川と呼ばれた。工事費は実に七千三百両余りという膨大な額であった。本山より千両、その他は法恵が懸命に寄附集めをしたものである。

住民の喜びはたいへんなもので、生活用水を運んだこの水路の周りには、西川、東川、蔵前、若松などつぎつぎと町ができ、町の発展に大きな役割を果たした。

法恵はこれによりのちに堀川乗経と改名し、箱館願乗寺の知堂(主任)を務めた。長女トネは地震学者ジョン・ミルンに嫁ぎ、四男道太郎(のちに道蔵と改名)は函館に諸種の学校を経営するなど、一族も箱館の文化に頁献した。

箱館の発展に大いに尽力した開拓功労者で真宗本願寺派の僧・堀川乗経は明治11年6月25日歿す。享年55歳であった。

函館ゆかりの人物伝