函館市文化・スポーツ振興財団

本田 延三郎 (ほんだ のぶさぶろう)  1907年~1995年

自宅を抵当にして制作資金を作るほどの情熱を注ぎ、日本の演劇・映画プロデューサーの草分けとして活躍した永遠の演劇青年、本田延三郎。

本田 延三郎

明治40年、父池田吉太郎と母本田テツの長男として函館(相生町)で生れる。父吉太郎は延三郎が4歳の時に他界する。

大正9年、函館商業学校に入学、弁論部に所属する。14年卒業後、昭和2年20歳のとき、弁論部の先輩だった劇作家八木隆一郎を頼って上京する。翌年、村山知義が主宰する東京左翼劇場に、研究生として入団。同期生に小沢栄太郎、松本克平、1年先輩に滝沢修らがいた。劇作家志望だったが、小道具係をしていた。

昭和9年、同劇場は解散し、新協劇団に入団する。日本プロレタリアート劇場同盟書記長も務め、治安維持法で「ご用」になって3回、通算3年半を獄中で暮らす。この間2本の戯曲を書き、後年、学生だった井上ひさしがこれを読んでいた。

昭和23年、劇団民芸の前身「民衆芸術劇場」の経営部を手伝ったが、小沢栄太郎の誘いで俳優座経営部へ移る。俳優座の俳優以外に、民衆芸術劇場が解散したため滝沢修、宇野重吉のマネージャーも一時やっていた。

昭和24年、延三郎の発案で新劇団の映画出演への窓口を一本化した新劇協同社を設立。無声映画からトーキーへ変わった以降の映画界では、セリフをきちんと話せる新劇俳優が求められ、そのマネージメントを同社が独占した。アイデアは良かったものの内実は自転車操業の赤字続きで1年余りで解散、家を担保に借金をし負債を整理する。その後、五月舎時代には自宅を担保にする緊急手段を何度も使わざるを得なかった。
延三郎は新劇協同社時代の借金を整理しながら「もう、こんなばかばかしいことはやめた」と本心で思ったそうだ。そこへ俳優の岡田英次、木村功、金子信雄らが訪ねてきて新しい劇団を作ってほしいと説得される。昭和27年、「青年俳優クラブ」を設立する。翌々年、「劇団青俳」に名称を変更、倉橋健を柱に、文学座の若手演出家だった木村光一、無名時代の清水邦夫や、安部公房らと仕事をする。俳優も新たに西村晃らが入る。劇団研究所1期生には蜷川幸雄もいた。社長として青俳には20年いたが、45年劇団内部の葛藤から身をひく。
延三郎は青俳時代に、東映の嘱託プロデューサーとして30数本の映画を手がけ、今井正監督の「米」など、ある年のブルーリボン賞1、2位を占めたこともあった。また、同監督の「武士道残酷物語」はベルリン映画祭で邦画初の最高賞の金熊賞を受賞した。
昭和46年5月、芝居が好きで仕方のなかった延三郎は、青俳から身をひいてすぐ、演劇プロデュースの五月舎をスタートさせた。井上ひさし、水上勉の戯曲を中心に、木村光一が演出した。その舞台成果は目を見張るものがあり、毎年のように演劇賞をもらい、延三郎自身も昭和51年に日本新劇経営製作者協会賞を受賞。56年には、紀伊国屋演劇賞特別賞を受賞した。

平成7年3月18日、日本の演劇・映画プロデューサーの草分けとして活躍した本田延三郎は心筋梗塞のため東京都狛江市の慈恵医大第三病院で死去、享年87歳であった。

函館ゆかりの人物伝