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函館市文化・スポーツ振興財団 Foundation for Culture and Sport Promotion in Hakodate

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平田 文右衛門 (ひらた ぶんえもん) 1849年~1901年

函館に生れ、函館のために働き、その一生を函館で送った、「函館四天王」の中でも実業肌でスケールの大きな人物・平田文右衛門。

嘉永2年7月25日、呉服太物商・7代目廣島屋文右衛門と大野村の農業高田安右衛門の娘の二男として地蔵町(現・豊川町~末広町)に生れる。名を兵五郎といった。(廣島屋は屋号の他にも平田という姓を用いていた)
安政3年頃、学齢に達した兵五郎は内澗(現・末広町)にあった佐山塾に入門する。兵五郎はこの塾で一通りの読み書き算盤を習う。しかし、その頃の一般の慣わしであったように、勉学はいい加減に切り上げさせられ商業見習いとして、福山の宮川という呉服屋へ丁稚奉公に出される。兵五郎が奉公に出掛けて行ったのは、文久元年、13歳の時であった。
明治になってから函館は開港場として、急に新しい時代の風が吹き込んで来る。廣島屋では、従来営業していた呉服商も将来発展の見込みが立たないことから、まだ誰も手を染めていなかった西洋金物、すなわち洋式金物類の販売に着目し、明治8年和洋建築金物商に移った。これが函館に於ける欧米金物店の最初のものであると共に本道に於ける斯業の始めでもあった。
明治10年、杉浦嘉七、渡辺熊四郎その他の人々と共に内澗学校の設立に力を尽し、また同年貧児教育の機関である鶴岡学校の開設に協力して、本道最初の義学を発足させた。翌11年には伊藤鋳之助、渡辺熊四郎等と共に本道最初の新聞紙を刊行するため北溟社を結び、函館新聞を発行。さらに、豊川町に第一公立病院(後の豊川病院)を設けた。また、官民一致協力して公園の設置を計画し、浅田清次郎を主任として12年11月3日に開園式を挙行した。
明治12年12月6日、堀江町(現・東浜町)から出火した火が山背風で拡がり大火事となり、廣島屋は店も住宅も一切なくし、甚大な打撃を受けた。兵五郎はこの不幸に少しも屈せずに自宅や店鋪の再築に努力すると共に、罹災の救援に奔走した。そして翌13年旧地に再築して開業した。この建築は不燃質(石造)の2階建で、向側の金森渡辺熊四郎の洋物店とその様式がよく似ていた。
明治15年4月、彌生学校が開校されたが、落成直前に焼失し、再度の建築まで並々ならぬ苦心が伴った。しかし、その開校への功績等により、有志と共に、藍綬褒章を賜った。
明治24年2月17日、7代目文右衛門が死去、その年の3月6日8代目の文右衛門を襲名する。8代目文右衛門を襲名した兵五郎は、43歳にして始めて戸主となり、廣島屋の屋台骨を背負うことになった。
函館の将来のためには、港湾の整備と、これに附随する船渠の完成と、奥地に通ずる鉄道の敷設が最も急務であると考え、函館小樽を結ぶ函樽鉄道株式会社の創設に努力した。
明治34年10月7日、実現できぬ多くのものを後に残して、夢を抱きながら、53歳の若さで他界した。

函館四天王
明治初期から中葉にかけて函館経済界の重鎮として活躍し、産業振興、更に福祉事業や都市造りに力を尽くした函館市民精神の源流。今井市右衛門(1836~1887)、平田文右衛門(1849~1901)、渡辺熊四郎(1840~1907)、平塚時蔵(1836~1922)の4人で、元町公園にある四天王の銅像は函館青年会議所30周年記念事業として建立された。

本文/「ステップアップ」vol.37(1992.4)、vol.152(2001.11)より
(写真/函館市中央図書館、参考/「目で見る函館のうつりかわり」函館市発行、「平田兵五郎小伝」神山茂編集・函館郷土文化会発行、「北海道人名事典」金子郡平著作・発行、「函館市功労者小伝」函館市発行、「函館人物誌」近江幸雄著)


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