函館市文化・スポーツ振興財団

二代 平出喜三郎 (ひらで きさぶろう)  1876年~1931年

北洋漁業の先覚者として、実業家また政治家としても活躍した二代目 平出喜三郎。

二代 平出喜三郎

明治9年3月15日、石川県江沼郡橋立村(現・加賀市橋立町)の久保彦助の四男に生まれる。幼名を彦十郎と称した。久保彦助は江戸時代後期に加賀市橋立の「橋立三人衆」と呼ばれた北前船主の一人であった。喜三郎は幼少にして同郷人で函館在住の初代平出喜三郎の養子となり、函館商業学校を経て、慶應義塾に学び函館に戻る。

明治40年、先代の死去にともないその遺業を継いで以来、海運業、漁業、鉱業、物産業、代弁業、問屋業を経営し、実業界で活躍する。

明治45年、函館区選出衆議院議員に初当選し、政界にも進出して父子二代にわたり国政に参加する。同時に函館商業会議所議員及び函館区会議員に推挙される。

当時わが国の北洋漁業は、ロシアの領域を安く借り莫大な利益を得ていたので、トラブルが絶えなかった。喜三郎は、鮭鱒の習性が4年に1度の産卵期に生まれた河川に戻ってくることから、魚道を探れば他国の領海で漁をする必要がないと、母船式沖取漁業の推進に努力する。

大正4年、再び衆議院議員に当選し、御即位式に勲四等に叙せられる。合名会社函館塩販売所社長、函館銀行監査役、奥尻鉱山株式会社所長に就任。函館新聞社を経営し、函館図書館建設にも尽力し、館長を務めた。

大正の政変に際し政友会を脱し、中正会に入り後に憲政会に入党。大正8年、函館に憲政会支部を設けるや支部長となり、翌9年第十二区(後志檜山支庁管内)より選出衆議院議員に当選。船見町に本邸を、中浜町(現・大町)に店舗を持ち、函館市の重鎮にして大正11年10月函館第一期市会議員に当選し函館市参事会員となる。昭和2年、高松喜六らと太洋漁業合資会社を創立し、イギリス有数の食料品商社クロス・エンド・バラックウエル商会より融資を受けて、本格的な母船式鮭鱒漁業を開始する。操業はカムチャツカ西岸オゼルナヤ沖合で行われたが、惨憺たる結果に終わる。

昭和4年5月、長年の念願が叶い母船式鮭鱒沖取漁業権が許可され、母船10隻により出漁、今日の北洋漁業の基礎となった。

昭和6年、北洋漁業の先覚者として、また実業家、政治家として尽力した平出喜三郎はその生涯を閉じた。

その後、太洋漁業合資会社は函館公海漁業組合の副理事長原忠雄が継承し、昭和7年、平出漁業株式会社と改称。同社は太平洋漁業株式会社などと並んで5大勢力の1つであったが、昭和10年に太平洋漁業株式会社に合併された。

函館ゆかりの人物伝