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橋本隆造 (はしもと りゅうぞう) 1894年~不明

函館太洋(オーシャン)倶楽部の第一期黄金時代に活躍し、″鉄腕のエース″と謳われた伝説のヒーロー橋本隆造

明治27年、新潟県長岡市に生まれる。子どもの頃から野球に没頭し、長岡中学野球部に入ってからは、めきめきと頭角を現し始める。その噂を聞いた早大野球部出身の伊藤寛一は長岡中学野球部の練習を見に出かけ、″こいつは仕込んだらきっといい選手になる″の思いで、自らコーチを買って出る。
大正4年、早稲田大学に入学。巨人軍創設時に監督を務めた浅沼誉夫が主将で、橋本は早くから″エースになる逸材″と嘱望される。6年から7年にかけて、台湾・マニラ遠征に出発。台湾戦では7勝1敗、フィリピン大学戦では5日間連続強行試合の末、4勝1敗の好成績を残す。
この5日間を通して橋本は1人で好投し、この疲れを知らぬ投手振りに、マニラの英字新聞が″鉄腕投手″の輝ける称号を贈って奮闘を讃えた。
大正7年7月1日、米国遠征帰りの早大野球部が来函。これに合わせて、太洋(オーシャン)倶楽部は北大野球部、札幌鉄道団野球部を招待し、函館で初の豪華4強リーグ戦を開催する。
この時、早大投手陣にいたのが橋本隆造であり、後の太洋倶楽部を支える不世出の名捕手・久慈次郎もその名を連ねていた。
4強リーグ戦は、早大対太洋倶楽部戦で熱戦の火ぶたを切った。早大のマウンドには、橋本隆造。その快速球とドロップボールで、13個の3振を喫する。早大は攻めても、巧みな戦術で得点を重ね、結果は1-5で、太洋倶楽部の完敗だった。
大正7年、函館市民に強烈な印象を残した橋本は、早大を中退して太洋倶楽部に入部する。初登板はこの年の函商戦で、7-0と完封勝ちをおさめ、続く函中戦でも8-0と完封し華々しいデビューを飾った。そして北大戦が実現。得意の速球と大きく落ちるドロップが冴え、8-0と完封勝利、北海道野球界にその覇を唱えた。「太洋倶楽部強し」の声に、東京六大学を始め、実業野球チームも続々と来函する。
大正11年、早大の久慈次郎が太洋倶楽部に入部。この年の7月23日、柏野新球場に迎えた″西日本の雄″大阪毎日新聞社(大毎)と対戦。1勝1敗で迎えた第3戦目の決勝戦で、橋本の快投により、2-0と大毎を破り見事に勝利を飾る。名うての実業野球界最強のチームを敗退させた太洋倶楽部は、″全国実業野球界の覇者″として全国に知れわたる。
その後、橋本-久慈は「黄金のバッテリー」として縦横無尽に活躍し、太洋倶楽部の躍進が続く。
昭和2年、全国都市対抗野球大会を迎えるが、鉄腕投手と謳われた橋本にも陰りが見え始める。5年、太洋倶楽部の監督に久慈次郎が就任。久慈の右腕としてコーチを務め、投手陣を指導し、久慈監督を支えていく。
昭和14年8月、久慈次郎亡き後、太洋倶楽部の監督として5年程努めていたが、18年、町谷長市に太洋倶楽部を託し、20年6月25日に生まれ故郷の長岡市に帰郷した。

本文/「ステップアップ」vol.205(2006.4)より
(写真・資料/「スコアボードが見ていた。函館太洋倶楽部80年の歩み」幻洋社発行、取材協力/高石健三(元函館太洋倶楽部監督)


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