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長谷川 濬 (はせがわ しゅん) 1906年~1973年

満州国の文芸運動の研究者であり、白系ロシア文学や満州国の映画史の研究者でもあった長谷川濬。

明治39年7月4日、父長谷川清、母ユキの三男として元町に生まれる。父清はのちに淑夫に改名し、楽天、または世民と号した。兄に海太郎、二郎、弟に四郎といずれもユニークな足跡を残した人物である。
大正2年4月、函館区立弥生小学校に入学。同級に亀井勝一郎がおり、中学も同窓だったが、勝一郎は小学6年生から入学し、濬は高等科1年を経て入学したため、勝一郎が1年上級となる。
大正14年、函館中学(現・北海道立函館中部高等学校)卒業後、両親の反対を押し切って、漁船に乗り込み、カムチャツカ半島ペトロパウロスクに行き、イクラづくりの季節労働に従事。その4年間、日魯漁業会社に雇われたり、伊豆の北川で働いたり、冬場は函館に帰省してロシア語を勉強したりの日々を過ごす。ラフカディオ・ハーン、コンラッドを愛読する。
昭和4年、濬は船を下り、外国語をロシア語で受験して、大阪外国語学校露語科に入学。ネフスキーにロシア語を学ぶ。7年、同大を卒業後、五・一五事件の当日門司をたち、ウラル丸で大連にむけ出帆、満州に渡る。満州国の新政府資政局自治指導部訓練所(改組され大同学院となる)で建国運動を担う地方県参事官たるべく訓練をうける。講師の奉天図書館長衛藤利夫の「満州学」(マンチチュデオロギー)と称する浪曼主義に心酔する。大同学院第一期生として卒業後、満州国外交部をへて満州映画協会に勤務。日本語で小説を書き始める。
昭和13年、北村謙次朗(満映経理部)、仲賢礼らと雑誌「満州浪曼」を発刊する。この他に、「耳を拾った話」を「満州新聞」に、「蘇へる花束」を「満州行政」に、エッセイ「映画妄言」を「満州映画」に、「モダン満州」に「花は褪せたり」と「赤猫飯店」を発表。
同年10月、「国境地区」(長谷川濬原作・藤川研一脚色)が、大同劇団訪日記念新京公演で上演され、ついで、大同劇団日本公演において、名古屋、東京、横浜、大阪で上演される。
昭和16年3月1日、満映の映画人養成所を開業する。11月には、満州における映画館の経営、小型映画の巡回映写等を業務とする株式会社満州電影総社を設立。甘粕正彦が社長兼任となる。この年満映は機構改革で娯民映画部、啓民映画部を設置、技術部に当たる作業管理処新設する。配給部のうえに上映部を新設、巡回映写と映画館経営に主力を注ぐ。同年、満州に亡命したロシア系作家バイコフの動物小説「偉大なる王」を翻訳し、文芸春秋より刊行する。
敗戦後は、貿易船のロシア語通訳を務めながら、小説、詩、エッセイ、翻訳を綴り続ける。
昭和37年より入退院を繰り返し、47年肺性心と診断され、48年3月桜町病院を退院。この年の12月16日、67年の生涯を閉じた。
亡くなる10日前に大野沢緑郎に出した葉書に″分別の底も破れし師走かな″とある。翌年の3月「動物文学」にエッセイ「こんこんとわきでる地下水」、翻訳「冬の旅」(アルセーニエフ)、6月「動物文学」に翻訳「アンバ(虎)」(アルセーニエフ)が遺稿として発表された。

本文/「ステップアップ」vol.187(2004.10)より
(写真・資料/「彼らの昭和・長谷川海太郎・二郎・濬・四郎」川崎賢子著)


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