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長谷川 四郎 (はせがわ しろう) 1909年~1987年

ロシア語をはじめドイツ語、ブランス語、スペイン語等を駆使して子供の本から文学作品まで翻訳した、詩人で作家で劇作家の長谷川四郎。

明治42年6月7日、父長谷川淑夫、母ユキの四男として元町に生れる。父は北海新聞主筆(のちに函館新聞社社長兼主筆)。長男は海太郎(作家、牧逸馬・林不忘・谷譲次)、次男二郎(作家、地味井平造、画家)、三男は濬(作家、ロシア文学者)。
函館区立弥生尋常小学校、北海道庁立函館中学校、(現・北海道立函館中部高等学校)を経て、大正15年単身上京、杉並区荻窪の光明院に、しばらくして、東中野の松本泰(雑誌「探偵文芸」主宰)の持家に移る。この家にはアメリカから帰った海太郎がしばらく住んでいた。
昭和3年4月、立教大学予科文科に入学する。同じクラスの今井冨士雄と知り合いとなり、今井とともに柳田国男を訪ねる。ゲーテ、リルケ、ヘッセ、カロッサなどを読み、詩作を始める。また、今井を通して、吉田一穂、吉田秀和を知る。5年、21歳の時、函館新聞に「回郷偶書」を発表する。
昭和8年、立教大学予科文科を卒業後、法政大学文学部独文科に入学。関口存男、片山敏彦にドイツ語、ドイツ文学を学び、豊島与志雄のフランス文学の講議をきく。
昭和12年、南満洲鉄道株式会社に入社。大連図書館勤務となり、5月、大連に渡り、欧文図書係となる。翌年、北平(現・北京)の満鉄北支経済調査所へ転勤。資料班の外国語係となり、外国の新聞雑誌を読み、欧文資料の蒐集・整理・保管・翻訳・紹介にあたる。
昭和17年、満鉄を辞め、満洲国協和会調査部に入り、新京(現・長春)に移転する。蒙古班に所属し、満洲内に居住する蒙古人の土地調査に当たる。一方、アルセーニフの「デルスウ・ウザーラ」を濬との共訳のかたちで満洲事情案内所から翻訳刊行する。
昭和20年、満洲里(マンチューリ)の近くのソ満国境、扇山の監視哨に配属となり、ソビエト軍の攻撃をうけ、敗走。齋々吟爾(チチハル)の捕虜収容所に入れられたのち、満洲里を通ってソビエトへ入る。チタを経てチェルノフスカヤへ行き、カダラの捕虜収容所に入れられる。そして、翌年の21年から23年までチタの周辺で石炭掘り、煉瓦づくり、野菜・馬鈴薯の積みおろし、汚物処理、線路工夫、森林伐採、材木流送などの労働に従事する。
昭和24年、秋、ナホトカに近い、ウスリ鉄道沿線のホルで馬鈴薯の積みおろし中に足を骨折、ゴーリンの病院に入院する。翌年の2月、ナホトカから興安丸で舞鶴に帰還、荻窪の兄二郎の家にひとまず落ち着く。シベリヤ抑留中の体験を書いた「炭坑ビス」「街の掃除夫」「二人の若いソ連人」を発表。デュアメルの長篇小説「バスキエ家の記録」の翻訳に着手する。
昭和26年、「近代文学」4月号から抑留体験をもとにした「シベリヤ物語」の連作を発表し始める。翌年、「シベリヤ物語」を筑摩書房から刊行し、この年活躍した有力新人作家として、〈第三の新人〉のひとりに数えられ注目される。さらに「鶴」で作家としての地歩を築いていく。
昭和62年4月19日、詩人で作家で劇作家、その上ロシア語、ドイツ語、フランス語、スペイン語等を駆使して子供の本から文学作品まで翻訳し、絵も描いた長谷川四郎は都立松沢病院で息をひきとった。享年77歳だった。

本文/「ステップアップ」vol.173(2003.8)より
(写真/函館市文学館所蔵、資料/「ぼくのシベリヤの叔父さん」長谷川四郎、他著、「彼等の昭和」川崎賢子)


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