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函館市文化・スポーツ振興財団 Foundation for Culture and Sport Promotion in Hakodate

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長谷川二郎 (はせがわ りんじろう) 1904年~1988年

日本の近代絵画の研究者で伝説的な画家であり、また、戦前の埋もれた探偵小説作家を発掘し、自らもまぼろしの探偵小説家として活躍した長谷川二郎。

明治37年1月7日、父長谷川清、母ユキの次男として元町に生まれる。父清はのちに淑夫に改名。明治、大正、昭和の三代を生きたジャーナリストで、楽天、あるいは、世民と号した。また、母ユキは短歌をよくし、のちに函館短歌会の中心的存在となった。
因みに3人の兄と弟は、長男に海太郎、三男・濬、そして、四男・四郎、といずれも昭和という時代の表現者として、ユニークな足跡を残した人物たちである。
大正7年4月、函館区立弥生尋常小学校から函館中学校(現・函館中部高等学校)に入学。2つ年上の久生十蘭の指導で、二郎はギターを、親友の水谷準(後作家・「新青年」の編集長)はマンドリンを練習し、公会堂で合奏をする。
大正12年、函館中学校を卒業。この後、神経衰弱になり家出。秋田県の田沢湖で発見され、家に連れ戻される。「マンドリン」「ハリストス正教会への道」「ある男の顔」「静物」制作する。
大正13年、単身上京し、川端画学校に入るが、数ヶ月で退学。以後、独学で洋画を学ぶ。早稲田高等学院在学中の水谷準の下宿で共同生活を始める。2人は詩や短編小説をノートに書きため回覧しあう。
ある日突然、アメリカから海太郎が帰国し、翌年上京。東中野の「谷戸の文化村」に一軒家を借り、二郎も同居する。
大正15年、水谷準の計らいにより、「探偵趣味」に地味井平造のペンネームで、「煙突奇談」「二人の会話」「Ⅹ氏と或る紳士」を発表する。昭和2年、「創作探偵小説選集」に「煙突奇談」が再録され、「新青年」に「魔」を発表する。「函館風景」制作。
昭和6年、27歳の時、シベリア鉄道モスクワ経由でパリヘ遊学。パリでは、下町の三階建てのアパートの一室をアトリエにし、「荻窪風景」「門」「道(巴里郊外)」「風景」「マロニエと門」「モ
ンスリー公園」「巴里にて」「ジプシイの馬車」「巴里の裏町」を制作する。
7年3月、マルセーユから海路帰国。父、母、妹が上京し、一緒に荻窪の家で暮らし始める。9月、二科展に「家」「曇り日」「道」が初入選する。
昭和10年、二科展に「時計のある門」入選。好評を得る。「日本探偵小説傑作集」の序文で江戸川乱歩が二郎を評する。牧逸馬の「暁の猟人」、永井荷風の「すみだ川」の装幀をする。
昭和11年、兄の海太郎から経済的援助を受けていたが、それを父が引き継ぎ、画会をつくる。14年、父が借りた神明町の土地に新しくアトリエを建てる。ここが終焉の地となる。「新青年」に「顔」「不思議な庭園」を発表。「スヰート」の表紙に「薔薇」が掲載される。日動画廊にて「長谷川二郎油絵個展」開催。
以後、絵画を中心に詩や探偵小説などの制作を精力的に続ける。
昭和63年1月27日、夕食後、入浴中に脳内出血で倒れ、病院へ運ばれるが既に遅く、翌28日、うす曇りの日、親族に見守られながら84年の生涯を閉じた。

本文/「ステップアップ」vol.186(2004.9)より
(写真・資料/「夢人館4・長谷川二郎」岩崎美術社発行、「彼らの昭和・長谷川海太郎・二郎、濬、四郎」川崎賢子著)


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