函館市文化・スポーツ振興財団

冨士 月子 (ふじ つきこ)  1898年~1976年

函館で生まれ、2代目広沢虎吉の指導を仰ぎ、満天下を唸らせた月子節で関西女流浪曲の女王として初代春野百合子と肩を並べた浪曲師・冨士月子。

冨士 月子

明治31年3月29日、富山県小杉町光專寺の第32世住職、葉室燈耀の孫として函館に生まれ、春江と名付けられる。本名は飯田ハル。

祖父母に似て声質に恵まれ、幼い頃から評判の美声の持ち主で好きな浪花節で地元の天狗連に入り優勝するほどであった。

大正2年父葉室慶心の反対にも係わらず16歳で上京し修行を積む。やがて、大成を望み22歳の時大阪に移り2代目広沢虎吉の指導を仰ぎ女流団「成美会」の一員となり冨士月子と名乗り角座で看板披露をする。更に芸の道に励み、女流浪曲の代表的存在となる。

美声に加えて啖呵がきれ、舞台の品格も良く満天下を唸らせた月子節で関西女流浪曲の女王として初代春野百合子と肩を並べた。どんなに人気が出ても、ひとときの気のゆるみもなくひたすら芸道にいそしんだ。

昭和5年、大阪市東成区に寄席二葉館を新築し、浪曲・落語・漫才等の演芸常設館として、後進の育成に当る。その間、国内各地及び国外への巡業、また戦時中は軍部の慰問口演も数多く、NHKラジオ放送は言うに及ばず、数社を超えるレコード会社よりの、レコーディングの求めに応じるなど多方面で活躍した。

昭和36年、浪曲親友協会の女性初の第11代会長に推され、その任を全うする。39年、「は組小町」の口演に対し大阪府民劇場賞を受け、続いて40年に「義子外伝出世小太夫」の演技に対し大阪文化祭賞を受ける。

冨士月子の人生は芸一筋であったが、読む事書く事も好きであった。舞台での枕づけなども、その時機に応じて自作のものを演じていた。一時期は絵に興味を持ち、著名な画家の下へ通ってもいた。俳句は昭和12年主婦の友の懸賞に”京街道墨絵に見たり春の暮”の句で初入賞している。16年からは、高浜虚子の主宰するホトトギスの会員として指導を受け、病に倒れるまではかなり熱心に句作を続け、芸の旅の四季折々を句にとどめていた。

昭和41年9月病に倒れ、10年程の病床生活の末、養生の甲斐なく、51年8月19日永眠する。享年78歳であった。その年の3月の誕生日の句に”み仏の御手に花の舞台あり”と詠んだ如く今も芸の世界に、嬉々としていることであろう。

平成13年7月、上方演芸の発展に功績があった人物をたたえる第6回「上方演芸の殿堂入り」に落語の2代目桂枝雀、漫才の浪花家市松・浪花家芳子と共に浪曲師・冨士月子は殿堂入りした。

函館ゆかりの人物伝