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ジュール・ブリュネ 1838年~1911年

江戸幕府の軍隊近代化を援助するため派遣されたフランス軍事顧問団の一員として来日し、箱館戦争では榎本武揚の旧幕府軍に参加したフランス人ジュール・ブリュネ。

1838(天保9)年1月2日、フランス東部アルザス地方のベルフォールに生まれる。エコール・ポリテクニクを卒業後、陸軍士官学校、陸軍砲兵学校を経て、陸軍砲兵少尉に任官する。
1862(文久2)年からメキシコ戦役に従軍し、プエブラ攻城戦での功で24歳という若さで第5等レジョン・ド・ヌール勲章を授与される。画技において抜群な才能をもち、戦地において描かれた、そのデッサンはフランス国内中に公表された。
慶應2年、江戸幕府からの要請によりフランス政府は軍事使節団を派遣。この中に砲兵中尉であったブリュネが砲兵科教官として含まれていた。3年1月13日、横浜に到着した使節団一行は、数週間後には各自の担当において軍事伝習を開始。しかし4年1月3日、軍事伝習開始後一年たらずで鳥羽伏見の戦いが勃発。ブリュネらはフランス本国の命令により中立の立場をとることとなる。新政府から使節団の国外退去の旨を伝える書簡を受けとったフランス公使ウトレイは帰国を決定する。しかしブリュネはそれに賛同できず、4年8月17日、横浜のイタリア大使館での仮面舞踏会にカズヌーフ伍長とともに出席し、舞踏会を抜け出して「開陽丸」に乗り込み榎本武揚の旧幕府脱走軍とともに箱館に入り、軍事顧問として従軍する。この時、ブリュネは上司であるシャノワンヌ大尉の机の上に、フランス皇帝ナポレオン3世に当てた手紙を残してきた。ウトレイ公使やシャノワンヌ大尉、延いてはフランス本国に迷惑のかからないように辞表を出していた。
箱館で旧幕府の海軍副総裁・榎本武揚の行動を支援し、軍事的防衛の援助も行う。また、陸軍奉行・大鳥圭介を補佐し、4個旅団はフランス士官(フォルタン、マルラン、カズヌーヴ、ブッフィエ)を司令官とした。
明治2年5月、五稜郭に立て籠もる旧幕府脱走軍を新政府軍が攻撃し、五稜郭は陥落、榎本武揚らは投降した。ブリュネらは陥落前に箱館港に停泊中のフランス軍艦「コエトローゴン」で箱館港から脱出し、フランスへ連れ戻されるが本国においてはブリュネの心情を理解するフランス国民の後押しにより軍事裁判にかけられることはなかった。
1869(明治3)年、普仏戦争が勃発して軍に復帰することを許され、セダンの戦いでプロイセン軍に包囲された仏軍はナポレオン3世以下全軍降伏し、ブリュネも捕虜となったが、間もなくフランス政府が講和を結んだため、釈放されてパリ・コミューン鎮圧に参加する。1898(明治31)年、戦争相・シャノワンヌの下でフランス陸軍参謀総長にまで登りつめる。
1911(明治44)年8月12日、パリ近郊、フォントネー=スー=ボウの自宅でその生涯を終える。享年74歳だった。
ジュール・ブリュネの物語は映画「ラスト・サムライ」の主人公ネイサン・オールグレン大尉のモデルとなったとされる。
写真/前列左から2人目がブリュネ

本文/「ステップアップ」vol.209(2006.8)より
(写真/函館市中央図書館、取材協力/函館市史編さん室、資料/「函館の幕末・維新」中央公論社発行、「箱館役に現れる日仏関係の考察」田保橋潔著)


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