函館市文化・スポーツ振興財団

フリサンフ・プラトーノヴィチ・ビリチ  1859年(?)~1923年

准医師から流刑囚となり、ロシア革命勃発までの約10年間、2代目デンビー(アルフレッド)とともにカムチャツカにデンビー商会黄金時代を築いたビリチ。

フリサンフ・プラトーノヴィチ・ビリチ

1859年(安政6年・ただし諸説あり)、ヴォルイニ県ザスラフスキー郡シェペトフカ村で生まれる。キエフの准医師養成学校を卒業し、准医師となる。

1882年、4年の苦役刑を言い渡され、サハリンへの流刑が確定する。日露戦争前のサハリン島は流刑地だったが、島の南部は昆布やニシンが豊富で、ロシアに帰化したスコットランド人のジョージ・デンビーなどが漁場を開いた。こうした漁場では流刑囚が昆布漁に使役され、ビリチもその1人だった。

1885年、徒刑地での労働から解放されたビリチは、翌年昆布採集グループのリーダーに選ばれ、日露戦争前までに「サハリンの金持ち漁業家」に転身した。

ビリチの大きな成功の陰には、デンビーからの強力な支援があり、さらに当時のロシア政府の自国民に対する優遇策が後押した。

露領サハリンに向かう日本人漁業者が急増した結果、ロシア政府は漁船や漁業者の管理を目的に、20世紀初頭、露領漁業の基地としての地位を確立していた函館に領事館の建設を決める。政府に代わって地主西出孫左衛門と契約を交わしたのが、ビリチであり、その間に立ったのが、函館の中瀬捨太郎だった。

日露戦争中ビリチは、日本の密輸船から漁場を守るために自費で組織した義勇兵隊の隊長となる。沿岸警備中に函館からの漁夫を乗せた「第三加悦丸」を拿捕したこともあったが、最終的には捕虜となり、弘前の捕虜収容所に送られる。

日露戦争では日本の勝利となり、サハリン南部の漁場を失ったロシア人漁業者たちが次に目指したのはサケマスの宝庫カムチャツカだった。
ビリチはデンビー商会への共同出資者となり、2代目アルフレッド・デンビーとともにカムチャツカに「デンビー王国」を築く。そのライバル会社となったのが、函館の堤商会(後に日魯漁業(株)に統合)だった。

栄華を誇ったデンビー商会も1917年のロシア革命で資産を奪われ、ビリチはウラジオストクに居を移した。1921年5月に同地で起こったクーデターにより、白系の臨時プリアムール政府が樹立されると、同政府首班のメルクーロフによって特別全権に任命され、同年秋、軍隊と共にカムチャツカ統治に赴く。

しかし、革命政権がロシア極東に政権を確立した直後にビリチは逮捕され、1923年(大正12年)2月7日、ザパイカル歩兵師団軍法会議で極刑が言い渡され、翌8日、銃殺刑に処された。

漁業関係でビリチと縁の深かった函館には、大北漁業に入電があり、ビリチがウラジオストクで銃殺されたことが伝えられた。

函館ゆかりの人物伝