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中村 誠二 (なかむら せいじ) 1914年~1985年

“ドキュメンタリー・カメラマンの神様”と謳われ、日本のドキュメント映画の歴史に一時代を築き上げた名カメラマン中村誠二。

中村誠二は大正2年2月23日、呉服商を営む父喜三郎、母タミの次男として江差町で生まれた。幼ない頃から海を眺め、波の音を聞きながら豊かな自然の中で育った。
少年時代から誠二が胸をときめかせたのは、時折尋ねて来る映画好きの叔父小杉隆三から聞かされる銀幕の世界だった。中学を卒業するとすぐにでも本格的に映画の勉強をしたいと思っていたが、父に反対され、昭和3年函館工業高校に進学する。それでも映画への夢は断ちがたく、修学旅行で東京に行った折り、1人こっそりと旅館を抜け出し松竹キネマ蒲田撮影所を見学に行く。この時垣間見た世界が誠二に映画への道に進むことを決意させた。
昭和6年3月、函館工業高校を卒業。国鉄函館支局に2年勤めた後、兄の友人の口利きで松竹に入社、カメラマンとしての第一歩を踏み出す。現場の仕事は想像以上に厳しいものだったが、一人前になりたい一心でがんばり貫き、その甲斐あって、5年の下積みの後、ようやくチャンスを手にした。
14年、日本を遠く離れ南氷洋で捕鯨に従事する人達の記録映画「捕鯨」のカメラマンとして捕鯨船に乗り込む。この時、自然の雄大さをまざまざと実感。劇映画を目指していたが、この経験がドキュメンタリーへと駆り立てた。
18年30歳の時、松竹を退社。当時、ニュースや記録映画を専門に制作していた日本映画社に移り本格的にドキュメンタリー・カメラマンを目指す。そんな誠二の名を一役高めたのが、23年の作品「富士山頂観測所」。真冬の富士山頂剣ヶ峰に実に50日間も滞在。日本で始めて冬の富士山頂を記録したドキュメンタリーで朝日文化賞を受賞、今なおドキュメンタリーの名作の1つに数えられている。
30年、誠二に大きな転機がおとずれる。世界の屋根といわれるヒマラヤ山脈につらなるカラコルムとヒンズークシ、その探検の記録をカメラマンとして同行することになった。京都大学が組織したこの学術探検隊は植物、地質、人類などの分野で学術調査を行うものだった。撮影は氷河を目指す林田重男カメラマンのカラコルム班と、砂漠を行きアジアの秘境アフガニスタンに至る誠二のヒンズークシ班に分かれて進められて行った。誠二はそれまで外国のカメラマンが足を踏み入れたこともない地域を訪れ、時には危険に身をさらしながら撮影を続けた。”自然と人間の営みを独特の視点をもって美しい映像で記録した「カラコルム」。“日本初の長編ドキュメンタリーは国内はもとより海外でも高く評価され、国内では文部省特選に選ばれブルーリボン賞、海外ではベルリン国際映画祭銀熊賞など数々の名誉ある賞を受賞。誠二の代表作となった。
「カラコルム」で名実共に日本のドキュメンタリー・カメラマンの頂点にたった中村誠二。その後も文明発祥の地を訪れ、日本初のシネマスコープによる長編ドキュメント「メソポタミア」を作り上げるなど優れた作品を手掛け、劇映画では味わえない神秘の世界をスクリーンに展開。多くの人々に感動を与えた。
市川昆監督の「東京オリンピック」のチーフ・カメラマンをつとめるなど、日本のドキュメンタリーの第一線で活躍した中村誠二は昭和60年10月28日、胃ガンによる腹膜炎で72年の生涯を終えた。

本文/「ステップアップ」vol.120(1999.3)より
(写真/中村和美、資料/北海道新聞(昭和60年10月30日発行)、朝日新聞(昭和60年10月30日発行)、取材協力/日本テレビ、北海道函館工業高等学校、中村順一、小川秀平)


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