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永沢富士雄 (ながさわ ふじお) 1905年~1985年

函館に生まれ、太洋(オーシャン)倶楽部から読売巨人軍の初代4番打者で名一塁手として活躍した、永沢富士雄。

明治37年9月13日、函館に生まれる。函館商業学校卒業。
永沢富士雄が太洋倶楽部に入部後、初めて試合に出場したのは昭和2年6月に入ってからだった。主将兼捕手の久慈次郎は、永沢の見事な体格を見て、外野手より一塁手としてその打撃を生かすべきだと考えた。これが見事に開花した永沢は、久慈に次ぐ5番打者として活躍する。
太洋倶楽部は昭和3年、5年から8年と連続して「全国都市対抗野球大会」に出場し、永沢は、いずれも3、4、5番打者として太洋倶楽部の躍進に欠かすことの出来ない迄に成長を遂げる。
昭和6年の「日米大野球戦」に次いで9年、ルー・ゲーリッグ、ベーブ・ルース等の大リーグ選抜チームが2度目の来日をする。この年の3月21日に函館市内の半分が焼失するという未曾有の大火があり、野球どころではないという意見も多かったが、こういう時こそ市民に勇気と安らぎを与えたいとの久慈の強い意志から、11月8日、湯の川球場(現・湯川中学校敷地)で行われた。
全日本選抜チームに出場する事になった永沢富士雄は、合宿先より次のような″書簡″を寄せた。
「先日、久慈さんや太洋倶楽部の先輩諸氏からこの話がありましたが、太洋倶楽部には私以上の方々がいるので私はその器で無いことを申し上げましたけれど、度重なる話ですからせめて久慈さんの道具運びのお手伝いをさせて頂くつもりで参加する事に致しました。
私は大正14年頃から太洋倶楽部の一員に加えて頂きましたが、ご覧の通り攻守共貧弱者ですから出場などは心にも思っていません。今回の試合をチャンスとして″充分に見学させて頂きたい″と思っております。」
当日は、小雪の舞う肌寒い日だった。それでも両軍のナインは懸命なプレイを続け、湯の川球場を埋めつくした函館のファンを充分に魅了した。
試合は2-5で全日本選抜チームの惜敗だったが、地元出身の永沢は、函館決戦の晴の大舞台で、一塁手・5番打者として地元・函館のファンを熱狂させた。
昭和9年12月、久慈の推薦を受けて、大日本東京野球倶楽部(読売巨人軍の前身)に入団する。
昭和13年の巨人軍北海道遠征で太洋倶楽部と対戦した際、この年に入団した川上哲治が負傷した永沢にかわって一塁を守り、2本の二塁打を放ち、秋のリーグ戦からレギュラーとなる。永沢は川上にかわるまで巨人軍の名一塁手、そして主将として活躍、巨人軍の初代4番打者だった。
昭和19年3月、読売巨人軍を退団後、一時期太洋倶楽部に復帰し、戦後の大洋倶楽部の全盛期をつくる陰の立役者として活躍していたが、27年太洋倶楽部の第11代監督を最後に能登谷喜代治にバトンタッチし、東京に嫁いでいた娘のところへ旅立っていった。
昭和60年3月19日死去。享年80歳であった。

本文/「ステップアップ」vol.208(2006.7)より
(写真・資料/「スコアボードが見ていた 函館太洋倶楽部80年の歩み」幻洋社発行、取材協力/高石健三(元函館太洋倶楽部監督)


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