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続 豊治 (つづき とよじ) 1798年~1880年

武器製造者・工藤林十郎、鋳掛職人・銅屋久亘郎と並称して箱館の三絶巧(工)と呼ばれ、日本初の洋船「箱館丸」を建造した船大工。

寛政10年3月松前城下の福山にて船大工の子として生まれる。その生まれる前に先だって父親は死亡した。2歳の時、船大工続五郎治の養子となり、6歳にして箱館山上町に移住した。14歳の時藤山勘八に就いて造船技術を習得し、18歳にしてすでに技術は熟練の域に達していた。箱館築島(今の豊川町)の高田屋造船場に勤め、天保元年高田屋金兵衛に随い、江戸、大阪、京都、日光等の名勝旧跡を歴遊して美術工芸を見学し、非常に関心を高めた。
天保2年金兵衛は密貿易の嫌疑を受け幕府に拘禁、天保4年には、郷里淡路に閉居となる。高田屋の没落により造船所は閉鎖され、豊治は船大工を廃めて仏壇師となり、金兵衛に「黙識心悟図様」を製作してこれを贈った。その後本来の船大工に戻ったのは箱館来泊のアメリカ船の構造を知ろうとし奉行の「異国船応接方従僕」としてその機会を与えられた安政元年であった。
安政2年、箱館奉行の命を受けて、沖口備付和洋折衷の端艇2隻を建造した。翌年竣工し、その功績によって船大工頭収を命じられた。次いで「スクーネル型」箱館丸の建造に着手し、安政4年7月に竣工した。この箱館丸こそ日本人の手による最初の洋式帆船であった。その時の奉行堀利煕が臨席して進水式を挙げ、利煕はこれに乗って江戸に帰った。この時船の強弱便否を試みようと、豊治と次男卯之吉を同乗させた。途中暴風怒濤に遭うが、何事もなく品川湾に入った。利煕は親しく船体の堅牢なことを認め、称賛して惜しまなかった。
翌5年、豊治は箱館御用船大工棟梁を命じられた。その後、同じく「スクーネル型」亀田丸を建造。この船は文久元年、武田斐三郎を乗せ露領ニコライエフスクを往復している。万延元年、和洋折衷の新型船を創意し、これを豊治丸と名付け、津軽海峡の航路に使用した。明治8年、開拓使は日本型船五百石積以上の新造を禁止し、西洋型船を奨励した。それにより、豊治は西洋型帆船の建造に従事し、明治12年に至る4年間にスクーネル型船大小12隻を造った。
明治13年3月船大工続豊治は82年の生涯を終えた。次男の卯之吉は明治元年苗字帯刀をゆるされ、福士成豊と改め、測量技術者として世に名を残した。

本文/「ステップアップ」vol.77(1995.8)より
(写真・資料/「目で見る函館のうつりかわり」、「北海道史人名事典」、「北海道歴史人物事典」、「函館人物誌」近江幸雄著)


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