函館市文化・スポーツ振興財団

外山 ハツ (とやま はつ) 1893年~1983年

教育の理想を身をもって実行した内剛とネバリの“函館のお母さん”。函館女子教育の先覚者として60年間、女子教育ただ一筋に全身全霊を打ち込んだ外山ハツの生涯。

明治26年11月29日蓬来町にて生まれる。明治中頃の函館は鉄道馬車が走り、函館・小樽間に鉄道が開通、更に日本銀行の出張所が開かれるなどいよいよ発展しようとしている時代であった。
ハツは幼い頃から遊ぶことより精一杯働くことを教えられ、父の徳平は「これからの女は、何か一つ手に職を持っていなければならない」とハツに言い聞かせていたという。明治43年、ハツは17歳にして「函館裁縫女学校」に入学。その手先の器用さでめきめきと腕を上げていった。20歳で卒業し、4年後の大正6年蓬来町に和裁と手芸を教える裁縫私塾を開設する。その頃の女子は、裁縫、手芸さえできれば良いとされ、女には学問はいらぬものと考えられていた。又当時の函館には、設備の整った女子の教育機関は非常に少なかった。
大正8年、ハツは2人の子供を抱えたまま思いもかけない逆境に立たされた。自分に加えられた厳しい人生の試練として我が身我が子の行く末を考えた時、女性としての教養を高め男性に劣らない広い見識を持ち男性の良き伴侶となるべき教養高い女性を社会に送り出し、社会進歩向上の一助になり得るならばと思い立った。これを機に、後の育英事業につながっていった。この年、「女子教育」に従事しようという一大決心をし、常に「お母様」と呼んでいた「東京大妻技芸学校」の創立者、大妻コタカ女史を慕って上京、同校に入学する。ハツはここで大妻良馬、コタカ両師の厳格な中にも、常に暖かい愛情と教育に対する熱烈な情熱をもって教えを受ける。大正11年からは助教諭として勤務し、コタカ女史の高い信望を集めた。父徳平のはからいで大妻コタカ女史より「大妻」の暖簾分けを受ける。「日本中に大妻の名を名乗っております学校は外山先生1人でございます。外山先生の立派なお人柄は申し分ないと思いましてお許しをしたのでごぎいます。」(大妻コタカ)
大正13年4月1日蓬来町の一角に「函館大妻技芸学校」を創立。この時ハツは32歳であった。教諭には外山ハツをはじめとして、母校「東京大妻技芸学校」出身の神田マスコ、内海千代子の3人であった。そして校訓「恥を知れ」をモットーに「善良有為な家庭婦人」の育成を目ざして70名の生徒から始まった。前途多難な学校経営を持ち前の不屈の精神力と教育にかける情熱で克服し、どんどん躍進してゆく。ここもすぐに手狭になり大正14年には、松風町に校舎新築移転。そして昭和4年、繁華街として発展していくここの場所が教育環境にふさわしくないと高砂町(現若松町)110番地に木造2階建新築移転、授業を再開する。
昭和7年4月、甲種実業学校に昇格。「函館大妻女子高等技芸学校」と改称。昭和36年には、家政科に普通科を併置のため校名を「函館学園・函館大妻高等学校」と改称。現在に至る。
正面玄関を入るとすぐ、金糸銀糸の絹の糸で一針一針刺繍された霊妙技芸の「孔雀」がある。これは若き日600時間を費して繍いとられたハツの情熱の結晶である。
ハツは多くの功績を認められ、昭和34年に「藍綬褒章」、昭和41年は「勲四等瑞宝章」、昭和50年には「北海道社会貢献賞」を受賞した。
「この学校は私が建てたのですよ。故神田マスコ先生といっしょに建てたのですよ。針一本からこの学校は始まったのです。………」(外山ハツ)。

本文/「ステップアップ」vol.47(1993.2)より
(写真/函館大妻高等学校、参考/函館大妻高等学校研究集録、函館大妻学園・六十年の歩み)

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