函館市文化・スポーツ振興財団

時任 為基 (ときとう ためもと) 1842年~1905年

鹿児島に生まれ、明治初期の函館地方の開拓と発展に尽力し、市民に愛され、その名を町名に残した上級官吏。

天保13年、鹿児島郡鹿児島新屋敷町で鹿児島藩士時任為徳の長男として生まれる。幼名を静吉と称した。藩の公用人下役を勤め、明治4年東京府出仕を命じられ、ついで典事に任じた。5年7月開拓使八等出仕に転任し、8月七等出仕に進んだ。6年12月樺太に出張を命じられた。7年4月六等出仕となり、札幌本庁在勤となる。8年8月、樺太と千島を交換する際に、日本側の理事官として五等出仕に補された。函館から日進艦に搭乗して露領カムチャツカに航し、帰路暴風雨に遭って難航した。さらに根室より玄武丸に搭じて、再び占守(シュムシュ)島に航行して交換式を行った。翌年再び、千島を視察して「大日本地名アトイヤ」の国標を択捉島から持ち帰った。この年の12月に札幌本庁民事局長に命じられ、翌年1月開拓権大書記官に任命された。その後杉浦誠の後を次いで、函館支庁に在勤した。
明治10年12月から20年1月支庁廃止となるまでの11年間、函館に住み着いた。「寛仁にして民を愛し、頗る徳望あり」。函館市街の改正、谷地頭の埋立、函館公園の開設、北海道運輸会社の設立、函館町会所の建設、共同商会の設立、亀田川の転注、鶉山道の開削、区町村基本財産の造成などに努めたほか、道内で最初の児童福祉事業“育児講”や貧民教育施設、”鶴岡学校”にも関心を寄せ、大いに力を入れた。また函館の北海道共同競馬会社の会長となり、函館競馬の基礎を築いたり、上水道布設を強くとき、内務省の技師、後藤新平を招き講演会を開いて広く市民へ上水道の大事さを啓蒙した。その成果は、彼が去った2年後の明治22年、日本人による最初の上水道が完成した。さらに自らは、現在の本町・杉並町電車通りから大森浜にかけ、約50万坪の土地を購入し、洋式の模範牧場をつくるなど、明治初期の函館地方の開拓と発展に尽した功績は大きく、昭和6年、町名改正のときに、「時任牧場」にちなんで、そのあと地の一部に時任の名を残した。
その後、宮崎県知事、元老院議官、高知県知事、静岡県知事、愛知県知事、大阪府知事、宮城県知事を歴任し、晩年には貴族院議員、錦鶏問祇候となり、明治38年9月1日に没した。享年65才、死に臨んで正三位勲二等に叙せられた。
因みに俳優の時任三郎は子孫にあたる。

本文/「ステップアップ」vol.79(1995.10)より
(写真/函館市中央図書館、資料/「北海道史人名事典」、「北海道歴史人物事典」、「北海道大百科事典」、「北海道開拓功労者関係資料集録」、「函館人物誌」近江幸雄著)

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