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田中良吉 (たなか りようきち) 1867年~1957年

南部野辺地から新天地を求めて函館にやってきた北洋漁業の先駆者、田中良吉(滋造)。

慶応3年、南部野辺地(現・青森県野辺地町)の裕福な商家の三男として生まれる。
明治25年頃、新天地を求めて単身で函館にやって来て、まずロシア語を学ぶ。長じて加藤家の養子となったが、間もなく田中姓に戻り名前を滋造と改める。加藤家は、函館でお菓子製造業を営み、金平糖で名をあげていた。
明治34年、良吉は福山(現・松前町)の資産家・岩田久蔵(先祖は漁場請負人)の協力を得て、買漁形式(当時は日本に露領漁業権がなかったためロシアの漁業家と提携し出漁していた)でカムチャツカに出漁する。船は帆船で、河口で漁労した。魚を囲み、多人数で網引き綱を引き陸地に引き寄せて漁獲する地曳き網だった。
当時の邦人出漁者は、露国の規制もあって露国漁業家は邦人と契約時にロシア人を半数位雇うことになっていた。
良吉は日露戦争中、軍の将校との交流からロシア語通訳として従軍し、樺太地方の軍用道路開削に従う。
大正時代、北千島の占守島の古関川や幌筵島南島部の南四岩、鯨湾などを根拠地としてタラ漁業に従事し、その漁場は約100ヶ所を数えた。北千島のタラ漁労は、無動力の川崎船であったが、良吉は2年目から8トン級の発動機船で出漁した。以後、他の漁業家もこれにならい発動機を据える者が続出した。
昭和になって流し網もするが、網が揚げられないほど、サケ・マスが獲れたので、従来のタラ漁場は、その後西出孫佐衛門の西出商事、小川弥吉の東邦商事、(「山」の下に「天」)印の渡辺照平などに何ヵ所か譲る。
大正5年、官庁との連絡機関「北千島水産組合」が設立され、昭和9年漁業の進展から「北水産会」に改められる。この時の会長は、坂本作平、副会長は山内大次郎、評議員5人、特別議員3人、議員19人、委員7人、組合員248人によって構成された。良吉は選出された議員の1人であった。
昭和9年の流網漁業の許可船数は2000隻に達したが、良吉は「北海道缶詰KK」にも原料を供給した。
北千島漁業の全盛時、各漁業家はサケ・マスを青森の根津兼次郎の缶詰工場に運んだ。この工場は、荒井泰之進(末広町露人リューリ商会の缶詰工場主任)によって、設備を近代化したものだといわれ、その製品ピンクサーモン缶詰は、「三井物産」を通じオーストラリアに輸出された。
昭和13年、北千島の流網漁業の合同が行われ「北千島水産KK」が設立されたので、田中漁業部も必然的に同社に株主として入ることとなった。
昭和32年、死去。享年90歳。

本文/「ステップアップ」vol.299(2014.2)
(資料/「私の自画像」田中誠一郎著、田中誠一郎・紀由子記念出版「ありがとう」、「明治の北洋漁業家」会田金吾著、取材協力/函館市中央図書館、函館市北洋資料館)


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