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竹内 正道 (たけうち まさみち) 1909年~1991年

純国産の人工水晶を開発し、世界におけるパイオニア的存在として水晶とと宅に歩んだ竹内正道の人生。

明治42年9月27日、辰太郎・とく夫妻の上から3番目、男6人、女4人、10人兄弟姉妹の次男として生れる。父は岩手県盛岡市の産れで、母は同じ岩手の好摩玉山村馬場の農家沢川家の出だった。父は国鉄の職員として官吏であった関係上、転々と各地に勤務、正道は父の転勤先の上州、高崎で誕生している。その後、父は郷里盛岡に転勤となり、大正5年、盛岡市の桜城小学校に入学する。
小学3年生の時、父の転勤に伴い、青森県尻内(現在の八戸市)の三条尋常小学校へ転校となるが、またもや父の転勤により函館へ。大正7年7月7日、津軽海峡を連絡船田村丸で北海道へ渡る。若松尋常高等小学校(現在は廃校)へ再び転校する。たびかさなる転校で次第にガキ大将に変わってゆく。尻内小時代の3年目の通知簿を見ると学科は全部甲(オール5)であったが、操行は丙(2)だった。函館に移って4年目以降になるとぐんと成績が悪くなっていった。6年生になったある日、ふと、母がこんなことをいう。「お前は勉強が嫌いなのだから、学校を出たら、どこかのお店に小僧にでも行くより外に仕方がないわねえ!」と。正道はその時、愕然とする。これは大変なことだ。勉強をしなければならないと強く感じ、いままでの遊び友達を避けるために、自分の意思で転校する。転校で勉強の効果はめきめきと現われ、北海道庁立函館工業学校・機械科(現在函館工業高校)へ入学する。
昭和2年、函館工業学校4回生として卒業。市内の小熊冷蔵に入社。2年後、日本大学予科理科に入学する。
10年3月、卒業と同時に明電舎へ入社、半年後に水晶工場の方に回される。当時水晶を作る製作技術が幼稚な時代であったことと、新しい仕事であったので、大学を出たものは、特別の人を除いては行きたがらない部門であった。正道も当初、水晶をやるように命ぜられたときには、明電舎をやめてしまおうかと思ったが、”わが国プロテスタント界の明星“といわれた偉大なるキリスト教伝導者・植村環牧師の助言により、これは新しい、陽の当らない場所にある不遇な仕事だが考えてみると、自分がするように与えられた仕事ではないかと。そして”水晶こそわが使命“と思うようになる。
24年、明電舎が水晶部門を廃止する機会をとらえ、水晶振動子は必ず将来発展するという確たる信念のもとに同社を円満退社し、水晶振動子製造の会社創立に立ち上がる。24年、資本金50万円で「日本電波工業株式会社」を設立し水晶振動子の製造販売を始める。通信機器用の天然水晶は99パーセントがブラジル産で値投も段々と高くなり、歩どまりも悪いので人工水晶の必要性を感じ、32年頃より研究にとりかかる。東北大学電気通信研究所に人工水晶の結晶育成の研究を依頼し翌年成功、つづいて工業化の実験に着手する。そして6年後の38年、ついに人工水晶の量産が開始された。
54年7月、竹内正道は科学技術の発展に貢献した開発技術者に与えられる最高の栄誉賞である「井上春成賞」の第4回受賞者となった。その翌年55年4月、その45年の長きにわたり、水晶技術の研究開発に尽し、電子産業の発展に貢献した功績により「黄綬褒賞」を受賞した。
平成元年3月、故郷函館市鈴蘭丘町の丘陵に第5番目の本格的な生産子会社「函館エヌ・デー・ケー(株)」を開設した。
平成2年12月、東証2部上場(現在、東証1部)を果たし、平成3年7月5日、心不全のため東京都文京区の日本医科大学付属病院で81年の生涯を終えた。

本文/「ステップアップ」vol.118(1999.1)より
(写真・資料/「水晶のごとく」蝦名賢造編「函館工業高等学校・同窓会報」、取材協力/函館工ヌ・デー・ケー株式会社)


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