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高松 凌雲 (たかまつ りょううん) 1836年~1916年

箱館戦争で赤十字活動に先鞭をつけ、明治維新の大業に寄与し、博愛精神と鮮烈な人道主義を貫いた高松凌雲。

天保7年12月25日、筑後国御原郡古飯村(ふるえむら・堀小郡市古飯)庄屋、高松与吉の12人の兄弟姉妹の三男で幼名を権平といい、のちに荘三郎、さらに凌雲と改めた。
安政3年20歳の時、久留米藩家老有馬飛弾の家臣川原弥兵衛の養子となる。凌雲は武術を学び、漢書を勉強して、飛弾の小姓を勤めた。
ところが、陪臣はいつまでも陪臣という制度があり、藩内は佐幕と勤皇の2派に分かれて反目し合っているなどで、武士の生活に見切りをつけ、医者を志して、ついに脱藩を決意した。安政6年4月、黙って養家を出た凌雲は、そのまま久留米の地を去った。
桜所に入門した凌雲は、晩学ながらも蘭医学の修学を進め、医術の実力も深まっていった。
慶応2年8月一橋公の大阪行に随行する。脱藩して僅か7年目の30歳で、将軍の侍医という、医師として最高の栄誉を授かった。
慶応3年、徳川昭武が、幕府使節として第5回パリ万国大博覧会視察に洋行する時、凌雲は語学の才能を認められて、付添いを命じられた。フランス、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなど、欧州各国を視察して、世界的な見聞を広めた。
慶応4年正月元日、新年のあいさつで賑わっている所へ、日本から電報が届く。「本国伏見において戦争起こり、幕兵大敗せり」と。留学生一同はフランス郵船で5月横浜に帰国する。8月16目、凌雲は混乱の江戸で榎本武揚と会い開陽艦に乗組み品川沖を後にした。ところが、銚子沖で台風に襲われ、カジを失い自由がきかないまま奥州の東名に漂着する。艦船の修理、薪炭・食料を補給した10月13日、その当時、東北地方で転戦した古屋佐久左衛門(凌雲の実兄)の衝鉾隊、大鳥圭介の伝習隊、土方歳三の新撰組や仙台・会津藩の降伏反対の将兵を艦船にのせ、寒沢を出帆、21日北海道鷲ノ木村に上陸した。
榎本武揚総裁から箱館病院頭取(院長)を委嘱された凌雲は、患者が諸藩にわたって統一が難しいので「病院の全権委任状」をとって引き受けた。
官軍の負傷者6名を治療し、1名は死亡したが5名を本州に送り帰した。これは日本最初の赤十字活動であった。
明治元年11月、箱館病院は手狭なので2階建病院2棟の増築に着工、2年2月に落成した。凌雲は、西欧諸国の常法に準じて、戦闘力を失った傷病兵は、敵味方の別なく診療することを医員に命じ、彼らも院長と生死を共にする覚悟であった。
明治2年5月17日、榎本武揚と官軍総参謀黒田清隆との講和会見となり、翌18日に五稜郭は開城した。
これで、1年5ヵ月に及ぶ戌辰戦争は終結した。
乱平定後、凌雲は赦されて東京に帰り、開業のかたわら同志と同愛社を興して貧民の施療事業を起こし、救護事業で先駆者となった。
大正5年10月12日、幕末から維新という日本の激動期に、先見の明と強い意志、そのうえ大義と人道主義に生き抜いた高松凌雲は80年にわたる波乱に満ちた数奇な生涯を閉じた。

本文/「ステップアップ」vol.148(2001.7)より
(写真・資料/「医傑、高松凌雲先生」小野正男著、「医の時、高松凌雲の生涯」木本至著、「夜明けの雷鳴、医師高松凌雲」吉村昭著、「北海道歴史人物事典」北海道新聞社編、「函館人物誌」近江幸雄著)


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