高田屋 嘉兵衛 (たかだや かへえ) 1769年~1827年
箱館を基地として、エトロフ島を開発経営し北方漁業の先駆をなし、造船・海運の業を営み、大いに箱館の繋栄を築いた淡路生まれの高田屋嘉兵衛。
明和6年1月1日、淡路国(現・兵庫県)津名郡五色町都志で、弥吉の長男として生れる。幼少のころから大望をいだき、思いついたことは大胆に行動したという。12歳の時、すでに親戚の家で、商業や漁業に従事、師について学んだことはなかったが、生きた学問を体得していった。
寛政2年、兵庫にいる親類の船頭堺屋喜兵衛を頼って、下関まわりの船乗りになる。2年後、兵庫の西出町に世帯をもって店を開き、下関や長崎にまで、手をのばすようになる。このころ強く刺激されたものは、毎年春秋の2回、瀬戸内海から日本海をまわって、えぞ地の産物を積んでくる北前船の雄姿であった。
寛政7年、27歳になった嘉兵衛は、和泉屋喜兵衛の沖船頭になって、はじめて兵庫から日本海をとおって酒田に出る。この年に、庄内で、千五百石積みの辰悦丸を新造した。翌年、この辰悦丸に、酒・塩・もめん類を積んで酒田におもむき、そこで米を積み込んでえぞ地に向ったが、目指した処は、松前でも江差でもなく、箱館だった。
この時、嘉兵衛は、”箱館は、いまでは中型船や小型船しか入っていないが、港は良いし、やがて幕府がえぞ地を直轄するようにでもなれば、東えぞ地の豊富な漁獲物は、自然にここに集まるだろう“と、早くも箱館に目をつけていた。
箱館の回船問屋白鳥勝右衛門方に宿をとって、積み荷を高く売り、さけ、ます、こんぶなどをたくさん買い込み、今後のことも約束して兵庫に帰った。こうして、箱館に店をひらき、えぞ地の開発にのりだしたのは、30歳の時であった。
寛政11年、「海路乗試御用船頭」を命じられた嘉兵衛は、近藤重蔵とともに、クナシリの東北端アトイヤ岬に滞在して、クナシリ水道を調べる。翌年、「定御雇船頭」になり近藤重蔵とエトロフ島に漁場をひらく。ここに前人未踏のエトロフ航路がひらかれた。
享和元年、苗字帯刀を許され、姓を高田と唱え、屋号を高田屋とした。恵比町に5万坪の土地をひらくほか、箱館山や亀田の山に、杉・松の苗木を植樹する。
文化元年、幕府が船修理のため箱館地蔵町沖に築島を完成したとき、嘉兵衛の請願で船作業場を設けた。築島に接する奇州を埋め立てた825坪の造船場で船大工と碇鍛冶を築島に住まわせた。北海道造船事始めである。
文化3年、箱館大火で店舗類焼するが、これにひるまず、ただちに救援活動にのりだした。また、大坂町奉行からえぞ地産物売捌を命じられ、豪商としての地位は不動のものとなった。
文化8年、ゴローニン事件が発生、嘉兵衛らはエトロフの漁場など視察の帰途、ディアナ号に捕らえられてカムチャツカのペトロパウロスクに上陸、ゴローニンの釈放という国際的外交に当たり、円満解決をして賞讃された。文政元年、50歳になった嘉兵衛は、高田屋の経営を弟金兵衛にまかせて、郷里の淡路に帰った。
文政5年、金兵衛を正式に養子として高田屋の経営を相続させた。
文政10年4月5日、隠居してからも、郷里に築港を作るなど、いくたの功績と数々の教訓を残し、59歳でこの世を去った。