函館市文化・スポーツ振興財団

オーガスタ・デカルソン  1859年~1946年

開校後間もない遺愛女子高等学枚にその生涯を捧げ、基礎を固めた宣教師。

オーガスタ・デカルソン

遺愛女子高等学校は、白百合学園と並び、北海道で一番歴史のあるミッション・スクールで明治15年に開校した。

同校の創立に最も力を早くしたのは、当時ドイツ駐在アメリカ公使夫人のカロライン・ライト夫人であった。ライト夫人は最愛の娘を病で亡くしたが、死の間ぎわに娘と再会できたのはひとえに神のご慈愛の賜物と感謝し、神の恩恵に報いるために、何かよい奉仕をと願った。

折りしも、函館在住のハリス夫人が伝道協会に女子の教育機関の必要性を訴えていた。これを知ったライト夫人は自分の娘と同じ日本の女子のために奉仕をすることこそ自分に与えられた使命だと感じ、亡き娘の教育資金と手芸品を売って作ったお金を合わせて1,800ドルを建築資金として献金した。

これが同校設立の基金となった。校舎は現在の遺愛幼稚園の場所に建てられた。学校名は「カロライン・ライト・メモリアル・スクール」と名付けられた。

しかし横文字の校名では親しみもわかず、また覚えにくいということもあり、同校設立の協力者でもあり又後には教師にもなる宇野兼三の兄の内藤鳴雪という文学者に日本語の校名選定を依頼「遺愛女学校」と名付けられた。

初代校長にミス・ウッドウォースが就任したが、翌年結婚のため帰国したのでミス・ハンプトンが2代校長になり、次いで3代校長にミス・ヒューエットが就任した。その間に5年の歳月が流れていた。

明治22年、遺愛のためにその生涯を捧げたミス・デカルソンがアメリカ・フィラデルフィアから着函した。デカルソンは、時に30歳であった。以後35年余の長きにわたって遺愛に在職し、その働きは遺愛のみでなく函館の教育にあたえた影響も大きかった。

特に現在の函館盲・聾学校の設立についてはその働きは欠くことのできないものであった。デカルソンは1859年(安政6年)7月14日に、アメリカ・デラウェア州ミルフォードて生まれた。

女子大学、女子師範学校を卒業後、小学校の教育に3年従事し、明治21年アメリカ・メソジスト外国婦人伝道協会の宣教師となり、同年12月に函館に着いた。翌年ヒューエット校長の帰米にともない、明治23年4代校長に就任した。

学校は次第に発展し、広い校地の必要を感じてハンプトンと協力し、当時湯ノ川通りといわれた現在地に移転を決断した。そして明治40年の大火で旧校舎が焼け紆余曲折を経て、その年の12月新校舎及び寮が完成した。

宣教師館(通称ホワイト・ハウス)もこの時同時に出来上った。この宣教師館は以来、アメリカ人宣教師の住宅として用いられ、木造西洋館として北海道内でも貴重な建造物で、昭和57年に北海道指定有形文化財に指定された。

この間の功績により大正7年、中等教育功労者として函館教育会長三坂亥吉により銀時計を贈られ、大正11年に学制頒布50年記念式典が行われ記念として北海道庁長官宮尾舜治より銀盃が贈られた。

また退職帰国にあたり、勲六等瑞宝章が贈られた。昭和21年6月25日、フィラデルフィア州ニュートンにて召天した。享年86歳であった。

デカルソンの生涯は遺愛の歴史であり、遺愛の歴史はデカルソンの伝記となった。

函館ゆかりの人物伝