函館市文化・スポーツ振興財団

砂山 影二 (すなやま かげじ)  1902年~1921年

啄木に憧れ、わずか20歳という若さでこの世を去った夭逝の歌人・砂山影二。

砂山 影二

明治35年3月、旅籠町(現・入舟町)にて生まれる。本名諸岡寅雄。実父は、船長をしていたが、5月18日に遭難し死亡。その後、弁天町の活版印刷業・中野喜八郎の長男として養子となる。実母は当時健在であった。

寅雄は、深く文芸に興味を持ち新派和歌の若い詩人達が集う海峡詩社を起こしその中心となって雅号を「砂山影二」または草夢(くさゆめ)といった。函館中学(現・函館中部高等学校)の出身で生活派の歌を詠み、函館の歌人として知られ、郷土詩集とも言うべき純短歌数百首を「坊っちゃんの歌集」として出版する。

石川啄木の賛美者で啄木に深く私淑し、「立待岬にしよんぼり立てる啄木の墓標に夕ベの雨はそぼ降る」の歌を残している。

友人等が語るには、歌集が出来るたびに東京へ行き帰途海峡で僕は死ぬんだ、剃刀一挺あれば喉を突いて海に入るんだと豪語していたそうだ。

大正7年4月、『銀の壷』創刊号を発行。中野草夢名で9首発表。6月、『銀の壷』第2号を発行。9首発表。長谷川海太郎が参加して、短歌会を行う。

大正8年3月、『銀の壷』第5号発行。はじめて砂山影2名で24首発表。5月、『銀の壷』第6号発行。砂山影二名で9首。草夢名で4首発表。7月、『銀の壷』第7号発行。砂山影二名で9首。草夢名で、はじめて3行書き短歌8首を発表。『櫻草』No5に砂山影二名3行書きで5首発表。『銀の壷』第8号発行。砂山影二名で8首発表。口絵に自分の肖像写真を載せる。

大正9年1月、『櫻草』BAND7発行。8月、『銀の壷』と『櫻草』が合併し、『海峡』創刊第1集が発行。11首発表。『海峡』発行後は、砂山影二名以外の名前での発表はない。また、以後総ての作品が3行書きである。

大正10年3月、『海峡』第4集発行。14首発表。5月、処女歌集『坊ちゃんの歌(集)』発行。未発表作品を含み376首発表。歌集の巻頭には「わがいのちこの海峡の浪の間に消ゆる日を想ふ-岬に立ちて」などがあり、人知れず悩み苦しんだ様が伺える。

大正10年5月18日未明、連絡船伏木丸から津軽海峡に投身自殺。遺体は上がらなかった。
友人・油川鐘太郎へ宛てた遺書何にも言はなかつた事をゆるして呉れ何かしら兄に告げることが出来得なかつたのだ。
では僕はゆく さようなら -連絡船にて 砂山影二

函館ゆかりの人物伝