函館市文化・スポーツ振興財団

須川長之助 (すがわ ちょうのすけ)  1842年~1925年

植物分類学の父・マクシモヴィッチに絶大なる信頼を得、彼の手となり足となって植物採取に情熱を燃やした植物採集者、須川長之助。

須川長之助

天保13年2月6日、農業・須川与四郎の長男として陸中国(りくちゅうのくに)紫波(しわ)郡下松本村21番屋敷(現・岩手県紫波郡紫波町下松本字元地)にて生まれる。

長之助の家は、父の与四郎がわずかな田畑を耕作する貧しい農家でした。12歳の時に奉公に出され、安政5年、年季も明けて実家に戻る。

万延元年19歳の時、郡山から下北を経て、箱館に渡る。最初は大工の見習いとして住み込む。その後、八幡宮の別当(院の厩(うまや)司の別当から転じて=馬丁)となり、さらにアメリカ商人ポーターの馬丁として住み込む。ある日、同じ仲間の善助がお金のことで不正をはたらき、長之助もその巻き添えとなって辞めざるを得ない羽目となる。

ある日、たまたま入ったロシア正教会(現・函館ハリストス正教会)の神父に、来日したばかりのロシアの植物学者マクシモヴィッチを紹介され、風呂番兼召使として雇われる。マクシモヴィッチは、「黒竜江地方植物誌」という論文で、科学・技術・芸術の優れた業績に対して授与されるデミードフ賞を受賞した新進気鋭の植物学者だった。

箱館のロシア領事館に寄寓(きぐう、仮住まい)するマクシモヴィッチのもとで誠実に働き、また植物にも興味を持っていたので、すっかり気に入られ、チョウノスキーと愛称して弟のように可愛がられる。

当時、外国人は開港場から10里(約39km)以遠の地域に旅行することを禁止されていたが、日本人に採取させることは自由だったので、マクシモヴィッチは長之助に頼ることになる。そこでマクシモヴィッチは長之助をつれて臥牛山(函館山)に出かけては、植物採取の要領を教え、観察力を養うように指導する。

マクシモヴィッチは横浜・長崎行きも計画。文久元年、セントルイス号に便乗して横浜へ向けて出航する。翌年には、長崎に上陸し、ここを根拠地として九州各地で植物採取を行い、多数の標本を携えて横浜に戻り、元治元年帰国の途につく。この秋、長之助は4年半ぶりに郷里に帰る。

その後もマクシモヴィッチからは、採集依頼があり採ってきた植物を押し葉にする作業が続けられる。
明治10年、長之助は洗礼を受け、ダニエルの聖名を授けられ、日本ハリストス正教会の信者となる。
大正14年2月24日、風邪により肺炎を起こし昏睡状態に陥り、眠るように昇天した。行年84歳だった。

函館ゆかりの人物伝