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相馬 哲平 (そうま てっぺい) 1833年~1921年

質素倹約で巨万の財を積み、社会公共のためにはこれを擲(なげう)って惜しまなかった北海道で屈指の豪商、初代相馬哲平。

天保4年5月5日、越後国荒井浜(現・新潟県北蒲原郡乙村大字荒井浜)に相馬熊次郎の二男として生まれる。相馬家の祖先は乙村(きのとむら)の医師で、綿打ちを以て業としていた。
安政6年6月2日、永い徳川幕府の鎖国も破れて、箱館が横浜・長崎と共に米英仏露蘭の5ヵ国に対して通商貿易が許された。哲平26歳の時であった。
文久元年、先年開港された箱館へ渡り根限り働いて一旗揚げようと津軽海峡を渡る。そこで郷里出身の岩船屋春蔵宅に雇われ商売に精を出すことになる。
文久3年、哲平が箱館へ渡って来てから足掛け3年、岩船屋から貰った給料と夜分行商をして儲けた金は、残らず貯金し、それを資金として、米穀商を開業する。岩船屋の恩義を永く忘れぬために、 同店の屋印にあやかり(ちがいか)と屋印を定めた。
明治2年、米穀商として一意専心商売大事に励むこと5年目、箱館戦争が起る。箱館市内の住民は先を争って避難したが、哲平は敢然として戦禍の巷に踏み止まり全資力を投じて米穀を買い集めた。市人は無謀と嘲けったが、意に介せず自己の所信を断行した。戦火収まれば最緊要なのは食糧である。米穀は羽根が生えたように売れ、必然ここに大きな利益をあげて、他日の大成の基礎を築いた。哲平が一生を通じて唯一の乗るかそるかの商売であり、命がけで掴んだ儲けでもあり、そしてこの試練によって心魂にも逞しい筋金が通されたのである。
明治17年、本業の外に日高十勝方面の漁業仕込みも併せて行うようになり、米穀商を止めて海陸物産商に転じ、次第に頭角を現した。
明治10年、開拓使より函館相場会所委員を申付けられ、15年には函館県商事通信員、17年には函館区役所商工通信員を命ぜられた。
漁業仕込みは、北見、根室、択捉、国後、樺太、露領方面まで拡大し、市内の土地は勿論、新潟県下道内各地の農地山林にも投資し、傍ら漁業、鉱業を営み、船舶に融資する等、各方面にその羽翼を伸ばした。
明治28年には函館財界一流人に伍して第百十三国立銀行取締役に選ばれ、ついで同銀行を継承した株式会社百十三銀行にも引き続き取綿役となった。また、函館商業会議所議員にも選ばれた。晩年、函館貯蓄銀行の経営には頗る熱意を傾け、巷間同銀行を以て「相馬銀行」と呼ぶものすらあった。
商売の外にも、「郷土報恩」をモットーに公共事業にも着手した。函館区役所への土地、函館慈恵院への基金、そして函館区公会堂は哲平の寄附金5万円を似て建設されたものであり、函館市立図書館の現書庫もまた哲平の寄附によるもので、数々の功績により紺綬褒章を授与され、また北海道最初の貴族院議員に挙げられた。
大正10年6月6日、北海道屈指の素封家で北海道金融界に君臨した相馬哲平は元町の自宅に於て胃腸カタルに因り死去した。行年89歳であった。

本文/「ステップアップ」vol.150(2001.9)より
(写真・資料/「相馬哲平伝」神山茂著、「北海道歴史人物事典」北海道新聞社発行、「函館人物誌」近江幸雄著)


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