函館市文化・スポーツ振興財団

眞藤 愼太郎 (しんどう しんたろう)  1883年~1971年

北洋漁業の開発者で日魯漁業の副社長を務めた、カムチャツカ漁業の権威者、眞藤愼太郎。

眞藤 愼太郎

明治16年7月1日、福岡県福岡市の回船問屋、眞藤利吉の長男として生れる。
明治34年福岡中学(現福岡高校)卒業後、右翼的国家主義に傾倒する。玄洋社に所属し、頭山満、杉山茂丸、内田良平の薫陶を受ける。中国大陸で馬族操縦を夢見て各地を転々とする。折からの日露戦争で通訳の辞令を受け従軍、満州義軍に参加して荒野を馳駆し、この活躍で勲六等旭日賞を授かる。

明治41年4月、独立して漁業を企てオコックで鮭漁業を経営するが薄漁のために多額の損失を招く。しかし、翌42年カムチャツカに至り東西両海岸に鮭漁を始め、大正元年以来好漁が相次ぎ巨利を獲取する。

西海岸オバラに漁場と缶詰製造所を設置し、オコックに漁場1ヶ所、東海岸に2ヶ所を有し、鮭年産額1万石、缶詰1万箱を製造して海外へ輸出する。福岡市に鰮油漬及び輸出品諸缶詰製造所を置き、年産額は優に2万円を超過した。弁天町と東京に各事務所を置き、輸出事務を取り扱った。

沿岸州及びカムチャツカ沿岸即ち北洋に於ける日本の漁業権は日露戦役による貴重な犠牲の賜物である。ところがロシア革命によりソビエト共和国が成立すると過去の協約を認めないと宣言した。この時愼太郎は外務省の嘱託として大正14年から昭和3年迄献身、漁業契約に尽力した。

大正10年、北洋漁業の大合同によりカムチャツカ漁業から日魯漁業に入社し、取締役に就任する。その仕事振りは独特で多くの人々の共感を得る。紺サージの制服、襟には七宝の鮭のバッチ、長靴ばきで25馬力の発動機船を真っ赤に塗り、両サイドに「ゲキレイ」と白く書き自ら元師と称し、北洋の海を縦横に叱咤激励して従業員の士気を高めた。

また、社員の人格の陶冶は日魯漁業の抱負経綸を行う上においての基礎事業と考え、大事業を遂行せんと欲せば、先ず人を得よ。従業員の訓練こそは会社永遠の磐石を計るという見地から、社員の習練道場「正気寮」を柏野に建て、玄洋社ばりの教育を行った。

さらに、快心の出来事は阿野飛行士をして、ロンドンから東京までの大飛行を計画し、東邦人最初の東廻り飛行を成功させて日本の若きパイロットのために万丈の気を吐いた。

昭和11年、函館定温倉庫を設立し社長となり、13年日魯の副社長となる。

第2次世界大戦中は北海道水産業会会長で北海道内の水産統制を担当。衆議院議員を1期務め、敗戦後は故郷で静かな余生を送る。

昭和46年1月11日、北洋漁業に執念を燃やし、「カムチャツカ将軍」の異名をとった眞藤愼太郎は国家の安泰を願って89年の生涯を閉じた。
俳優故進藤英太郎は甥にあたる。

函館ゆかりの人物伝