函館市文化・スポーツ振興財団

関 輝夫 (せき てるお)  1925年~2013年

函館市の文化発展に尽力した初代函館市民会館長、関輝夫

関 輝夫

大正14年4月26日、函館に生まれる。昭和18年3月、五稜中学校(現・北海道函館中部高校学校定時制課程)を卒業後、満州に渡り満州国際運輸株式会社に勤務する。終戦により復員引き揚げとなり帰国。函館市立松風小学校(現・函館市立中部小学校)に助教諭として勤務する。

昭和23年、函館市職員となり、総務部教育課に勤務。総務部次長、初代市民会館長、市民部長、中央卸売市場長、環境部長等を歴任し、56年依願退職する。

その後、社会福祉法人函館厚生院常務理事を務めるとともに、厚生保護事業、社会福祉事業、日赤事業、郵政事業、教育・文化・スポーツ関係事業など多方面にわたる事業の理事・顧問・会長として活躍する。

昭和43年、市民会館建設で、開設準備事務局長に就任。45年6月1日、函館市民会館の初代館長となり、49年まで5年間務める。

当時、函館市内における各種催し物や集会などは、公民館、学校の体育館、民間劇場(映画館等)などが利用されていたが、いずれも施設設備が不十分なものであったので、函館市民会館の建設は函館市民にとって永年の願いだった。

そのような中で、文化団体、経済団体、町内会など各層から会館の早期建設の陳情や署名活動、さらに建設資金の寄付や募金運動が全市民的に展開されたことにより、市から建設計画が示され、市議会や関係機関団体、各界の有識者などの間で熟議が重ねられた。

昭和44年7月「函館市民会館建設期成会」が発足する。事務局は函館市民会館開設準備事務局内に置かれ、わずか5ヶ月で当初の目標を上回る1億円以上の寄付が集まった。

函館市民会館は、昭和45年7月1日、開館。しかし、市民からは「市民会館は全国的なレベルでどの程度立派なものなのか目で見たい。それは、歌舞伎を呼ぶこととN響を呼ぶこと。この2つが来てくれるか。実現できるか。それを見ないうちは素晴らしい会館だといくら言われても信用できませんよ」と言われ、松竹に出向いて歌舞伎公演を、またNHKに行ってN響の公演を実現させ、市民の信頼を得た。

函館文化会会長、函館市文化団体協議会会長などを務め、地域文化の創造と継承に尽力し、昭和63年、函館市功労者表彰受賞。平成2年、北海道文化団体協議会賞受賞。6年、社会教育功労者として文部大臣表彰受賞。7年、函館市文化賞受賞。8年、勲五等瑞宝章を受章。平成25年、正六位が贈られた。

平成25年9月7日、急性腎不全のため死去。享年88歳。

函館ゆかりの人物伝