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函館市文化・スポーツ振興財団 Foundation for Culture and Sport Promotion in Hakodate

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関根要太郎 (せきね ようたろう) 1889年~1959年

山中節治 (やまなか せつじ) 1895年~1952年

大正・昭和初期の函館において、海同会館、旧亀井邸、旧百十三銀行本店など、多くのモダン建築を設計した、関根要太郎・山中節治の兄弟。

関根 要太郎 山中 節治

関根要太郎は明治22年10月22日、埼玉県秩父にて生まれ、同地で育つ。一方、実の弟である山中節治は明治28年1月7日、同じく埼玉県秩父にて生まれ、秩父郡大滝村の山中家で育つ。
明治40年、関根は郡立秩父農学校を卒業し、上京。働きながら夜間の工業専門学校に通う。43年、建築家・三橋四郎の設計事務所に就職。この事務所での蓄えを元手に、東京工業高等学校(現東京工業大学)建築科の専科生として学び、大正3年に卒業する。5年、不動貯金銀行(りそな銀行の前身)の店舗設計を手掛ける「日本勧業会社建築部」に移籍。以降、昭和17年まで、同社の店舗営繕に携わる。
弟の山中も建築の道を志し、当時、開設されたばかりの早稲田大学の建築科で、専科生として学ぶ。大正7年、関根が在籍していた「日本勧業会社建築部」に入社。兄弟で共同設計を始める。彼らの設計した建造物は、当時、西欧で流行していた建築様式「セセッション」に影響を受けた、日本では最先端の作風だった。この年、関根は不動銀行函館支店の建築のため来函。この時、函館海産同業組合事務所(海同会館)の設計を依頼され、大正9年1月に竣工させる。末広町に現存するこの建物は、関根・山中の設計の才能を大きく開花させる仕事となる。
大正9年4月、関根と山中は東京・銀座に「関根建築事務所」を開設する。次いで函館では区立病院外来診療棟(基坂・大正11年竣工)の設計を担当する。しかし着工直後の10年4月西部地区で大火が発生し、市内の大半が焼失。そのため2人は病院建設と同時に、石塚商店(末広町)、亀井喜一郎邸(元町)、函館病院内科部長の爾見淳太郎邸(船見町・現存せず)、市会議員の泉泰三邸(曙町・現存せず)の設計を担当。特に泉邸は当時の日本住宅ではまだ珍しい、鉄筋コンクリート製のモダン住宅だったという。
大正12年、山中は建築絵画集「文化生活と其の住宅」を出版。翌年、兄・関根の事務所から独立する。その後も2人の函館での仕事は続き、15年に関根は函館の地場銀行である百十三銀行本店(末広町・現SEC電算ビル)、同東京支店、泉泰三の湯の川別邸の設計を担当。山中は昭和5年に函館競馬場の設計を手掛けている。またこの時期に関根は京王閣遊園(東京)、山中は藤山貸住宅(東京)の設計など、近代建築史に残る傑作を数多く手掛けている。
昭和9年3月21日、函館大火の報を聞いた関根は、火災鎮火の翌日に来函。4月、その被害状況を纏めた論文「函館市の火災報告」を発表。11年、大火で損傷した不動銀行に代わる新店舗を設計。これが函館で最後の仕事となる。またこの建物は戦後、協和銀行の店舗として昭和53年まで使われた。
戦後、関根と山中は再び共同設計を始めるが、山中は昭和27年1月25日、胃癌のため逝去。関根は34年2月20日、前日にこじらせた風邪が原因となり、持病の心臓疾患のため、69年の生涯を閉じた。

本文/「ステップアップ」vol.185(2004.8)より
(資料/「自伝・生い立ちから今日まで」、「経歴書」関根要太郎著ほか、写真・取材協力/関根キヌ、足立萬里子、関根悦子、町田仁志)


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