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澤邊琢磨 (さわべ たくま) 1834年~1913年

キリシタン禁止令の中、ニコライと邪教をめぐる問答の末、洗礼を受け、日本で最初の正教会の信徒として正教会の伝道に携わり、日本ハリストス正教会長司祭となったパウェル澤邊琢磨。

天保5年1月5目、高知県土佐郡潮江村に土佐藩士・山本代七信道の長男として生まれる。
本名、山本数馬。武市半平太の妻の父と、琢磨の母とは兄妹の間柄、坂本竜馬の父が弟で、琢磨の祖父が兄という関係にある。琢磨は半平太の6歳年下で、竜馬とは同年代であった。
天保10年から琢磨7歳まで、吉岡外内に習字と漢籍を、奥宮卯之助および土方藤吉に無外流剣槍術を習う。嘉永4年、武市半平太の武術道場において塾頭格となる。
安政2年、武術修行のため江戸に出て、桃井春蔵の道場に入る。4年、江戸において時計事件起こる。その事件とは、友人の田那村作八と酒を飲み、古道具商の佐川屋金蔵が落とした風呂敷包みを拾いあげ、その中の懐中時計2個を時計商に売りに出したところから始まった事件である。半平太と竜馬は琢磨の事件を内密にするため奔走するが解決せず、琢磨に江戸脱出を勧める。江戸を脱出した琢磨は東北地方へ流浪の旅に出る。この年の12月末、箱館に着く。翌年、武術道場を開設。
万延元年、琢磨24歳の時、神明社の宮司澤邊幸司の養子に迎えられ、澤邊琢磨と改名する。この年、ニコライ、ロシアより箱館に着き、ロシアの領事館に入り領事館付司祭となる。ニコライ当時25歳の青年であった。
慶応元年、ニコライの殺害を決意して面会する。ところがニコライの説明したハリストス正教に共鳴して殺害を中止、明治元年、ニコライより洗礼を受ける。琢磨は日本で最初の正教会の信徒として正教会の伝道に携わる。その後、キリシタンの取り調べが厳しくなり一時箱館を脱出することになり、ニコライもこれを承諾。琢磨は一緒に洗礼を受けた酒井篤礼と浦野大蔵との3人で内地へ渡る。
明治2年、仙台藩士に正教を伝道する。琢磨は仙台藩士を養う資金に窮し、妻を売って資金を作る計画を立てる。もちろん生涯売るわけではなく、1年ないし2年の期限を切って、料理屋勤めをさせるということである。旧来の武士道では正義のために妻子を犠牲にすることが最高の道徳であった。ニコライは日本の伝道を決意し不在中を琢磨に託してロシアに帰る。
明治4年、仙台において伝道中、キリシタン禁止令により検挙され、入獄される。この時の検挙者130人。
明治7年、ニコライの招集により伝道者集会が開かれ、琢磨は全国区の講師となり、また翌年は日本最初の司祭に選ばれる。司祭就任後は東北地方(宮城県佐沼、岩手県一関、福島県白河)の伝道に没頭する。最後の伝道は四谷洗礼教会の牧会に20数年を費やした。白河から東京へ移ってからは四谷洗礼教会の司祭となり永眠するまで約30年間奉仕した。
ニコライ主教の永眠した翌年の大正2年6月25日、主教の後を追うが如くその生涯を閉じた。享年80歳であった。

本文/「ステップアップ」vol.192(2005.3)より
(写真・資料/「澤邊琢磨の生涯」福永久壽衛著、「聖ニコライ大主教」高橋保行著、「聖人ニコライ事蹟伝」日本ハリストス正教会教団府主教庁発行、「宣教師ニコライと明治日本」中村健之介著、「北海道歴史人物事典」北海道新聞社編)


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