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函館市文化・スポーツ振興財団 Foundation for Culture and Sport Promotion in Hakodate

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佐藤 在寛(さとう ざいかん) 1876年~1956年

函館教育界を沸き立たせた在寛先生。函館市の教育界の元老として全市民の尊敬をー身に集め、全道盲聾唖教育の父として敬慕され、北海道のペスタロッチと仰がれた。

明治9年、徳島県に生まれる。家業は半農半商で「勇川」と名付けられた焼酎の製造販売をしていた。明治26年18歳で師範学校に入学。明治30年3月、卒業と同時に小学校訓導となった。しかしその後も更に向学心は火と燃え、小学校訓導を1年半で退職、上京して哲学館(東洋大学の前身)に入学。極貧の中で苦学を余儀なくされたが屈せず哲学館で学びながら出版書肆育成会で「倫理学書解説」、「心理学書解説」、「教育書解説」各12篇の編集、又「日本倫理彙編」10巻の編集を手伝い完成させた。この仕事は自分にとっておおいに得るところがあったという。この間、学校では東洋哲学、西洋哲学を学び、更に宗教にも道を求め勉学に励んだ。
明治34年3月、哲学館を卒業、翌35年、25才の時小石川指ヶ谷町(この町に東京聾唖学校があった)で教育雑誌「実践教育指針」を発行する。明治35年頃数人の同志と小さな修善団体を作り、聖書の研究をしたり、参禅したりして道を求めていた。この時に非凡の師新井奥邃先生と出合い生涯の師と迎ぐことになる。在寛先生は教育に高い理想を掲げ、明治38年4月、友人と共に上野に5年制の「鶯渓女学校」を創設する。世間では女子教育への関心がきわめて薄かった時代のことである。順風満帆の経営であったが銀行や資本主が学校経営や教育内容にまで干渉するようになり、憤慨して大正4年に多数の教職員と退職する。
そして、新しい自由な教育を新天地北海道で求めようと、新井先生と縁の深い函館の地を選ぶ。新井先生は別れに際して、「在寛」という名前を与えてくれた。以来本名「佐藤政次郎」を改め、「佐藤在寛」と名乗り大正5年函館に渡る。北海道庁立函館商船学校や北海道庁立函館商業学校の嘱託や、北海道函館師範学校の講師を勤めた後に、函館毎日新聞社に入社、「彦左」のペンネームで教育時評等を書いて教育界に一服の清涼剤を与え注目された。そこで函館教育会長であり、盲唖院後援会々長の斉藤與一郎(後の函館市長)が、盲唖の窮状を訴え院長就任を懇請した。「私立の院であり、授業料もとらず、月給も出せぬ」ということに妙に心を動かされ、引受けることになる。大正11年5月のことである。この時3つの方針をたてた。一つは「経済的院の確立」、2つめは「盲聾唖教育の権威の確立」。そして3つ目は「校風の確立」であった。大正14年10月、汐見町の校舎を元町の公会堂に隣接する場所に校舎を新築移転させた。この時創立30年の記念式典も行なわれた。
昭和12年6月、盲聾唖三重苦のへレンケラー女史が訪れ、女史を遇して多大の感銘を与えた。昭和23年10月、北海道立函館盲学校、北海道立函館聾学校として発足、両校の校長として発令されたが、翌24年4月から聾学校長には篠崎平和先生が補され、在寛先生は盲学校長専任となった。1年後の昭和25年3月、盲学校を退職し、長年校内に居住していたが、これを機に湯川に居を移した。その後も在寛先生の高徳を慕い若い人がたくさん集まり、修善会や講演会などが行なわれその数は数百人に及んだ。その中には校長や教頭になった人も多く道南の教育界に多大の影響をもたらし、実業青年の多くは函館の経済界を担う人達となった。
昭和26年函館市文化賞、昭和28年北海道文化賞、昭和30年北海道新聞文化賞(社会文化賞)を受賞。函館市の至宝として数多くの市民、道民から仰がれていた。

本文/「ステップアップ」vol.48(1993.3)より
(写真/北海道函館聾学校、参考/北海道函館盲学校・函館聾学校「沿革史」、「視覚障害」第47巻 聾教育研究会発行)


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