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函館市文化・スポーツ振興財団 Foundation for Culture and Sport Promotion in Hakodate

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佐藤 祐知 (さとう ゆうち) 1859年~1942年

血の気の多し、人力車夫や運送業者など激しい世論の反対に抗して、独力で“バテツ”の敷設に執念を燃やした実業家・佐藤祐知。

安政6年8月15日、宮城県遠田郡不動堂村に生まれる。明治4年、馬による運搬業に従事、義兄一家の生計を支える。12年、義兄の酒乱に憤慨し家を出て、津軽海峡を渡り函館で荒物問屋及川家に身を寄せる。
函館区内の豆腐屋に就職し、翌年江差へ。次いで厚岸から釧路に滞在し、函館に戻り鮮魚行商を始める。
明治15年、及川に雇われ同家に住み込み奉公する。2年後、及川家を出て鶴岡町(現・大手町)に酒・荒物・豆腐の店舗を開業する。
明治19年6月、温泉が噴出した下湯の川村の活況を見て将来を嘱望し、翌7月ここに店舗を移す。しかし、函館湯の川問が悪路のため年々浴客が減少。23年、温泉景気挽回のため汽車鉄道敷設を決意し、独力で敷設請願運動を開始する。翌年、下湯の川村総代人となる。敷設計画を汽車鉄道から馬車鉄道に変更、このころから函館区民の馬車反対運動がしだいに激化してゆく。
明治27年1月、亀函馬車鉄道株式会社を設立。2月、同社取締兼創立委員長となる。30年12月、亀函馬車鉄道株式会社を開業。函館区内を開通させる。
明治31年8月、函館鉄道株式会社と合併、社名を函館馬車鉄道株式会社に改称、12月湯の川線が開通する。
現在の旭町郵便局付近にあった会社を起点として路線は東川、蓬莱、十字街、末広の各町を経て弁天に通じるものと、音羽町(現・大手町)から鶴岡町に出て地蔵町(現・豊川町)を通って十字街に至る2線で、レールの長さは延ベ4823メートルで、市民は2頭の馬が引くスマートな車に目を見張った。
″馬車鉄道″は手軽さと″人の足より速い″ところが人気を呼んで、明治30年代の市民の足の役割を果たした。その後間もなく路線は弁天終点から右折して仲浜(現・大町)、東浜(現・末広町)を通る″浜通り線″が開通、さらに亀田、湯の川線も相次いでレールが敷かれ今日の市電とさして変わらぬ交通網が出来上がった。最盛期には客車25台、馬97頭、運転手、車掌各33人それに馬丁、工夫各10人というスタッフで始発午前7時半、終発午後10時、運転回数は1日200回から250回に達し4~5分おきに到着するという便利なものだった。明治の末、函館水電の前身渡島水電会社が買収し、電車に切り替えられるまでは馬のヒズメが″カツ、カツ″と函館の街並に聞こえていた。
明治35年、湯の川村村会議員に当選(明治45年まで連続当選する)。この年、上湯の川・下湯の川・亀尾の3村が合併して湯の川村になる。
明治40年8月、温泉旅館「芳明館」を開業し大正8年まで営業する。大正10年、湯の川村に活動写真館を始めるが1年で閉館。翌年、松風町に活動写真「萬歳館」を開業する。昭和9年3月の函館大火で焼失するが新たに映画館「萬歳館」と「帝国館」を開業させ、15年北海道映画会函館支部長となり、16年まで営業を続ける。
昭和17年4月10日、人見町の自宅にて死去。享年84歳であった。
平成10年4月26日、佐藤祐知の偉業をたたえ、「函館馬車鉄道記念碑」の除幕式が駒場車庫で行われた。

本文/「ステップアップ」vol.178より
(写真・資料提供/佐藤正五、資料/「湯の川温泉と馬車鉄道」佐藤正五著、「渡道六十五年回顧-佐藤祐知 自叙」尾崎角太郎編)


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